いないということ
「いないということ」
最近、娘たちが隣に座って「お話」をしてくる。
わたしにとっては、その行為だけでなにかの意味を感じる。
隣に座られることで、彼女らが何か頼りがいのある話し相手のような気がしてくる。
確かに貴重な話し相手だ。
独身の頃は、猫だった。「ホキ」という真っ白なメス猫。
何より確かな話し相手なのだ。
次女とその話に乗った長女が、いろいろ話すのだが、結局「いないということ」はどういうことだ?
であった。
「いない」「ない」とはなにか。「ある」とは。
ハイデッガーか?ちょっと頭をよぎったが今喋れることは何にもない。
哲学的に「いないということ」を一般化して考える気にはなれない。
あくまでもわたしとこの話し相手のふたりの娘との間の話にしたい。
わたしの具体的な身体的場所からはなれず、はなそう。
まず、わたしは遠からず、あなたたちの前から姿を消す。
とは今は言えない。
次女はそういう事態にことさら抵抗を示す。
でも、はっきり確定していることは、それとなく知らせておいたほうが良い。
わたしはそれまでの日々をカウントダウンしながらこれらも書いている。
まだまだ書いたりつくったりしたいものは他にある。
それまでは、いなくなるわけにはいかない。
と、思っているが。
ヒトの生などボヤッとしていれば、あっという間に尽きてしまう。
短くとも効力のある生を送っていたなら、二人にとって意味を残せる。
何らかの価値となる。
わたしにとって重要なのは、生きられる時間を過ごすこと。
ふたりの小さな肩をこんなふうに感じながら過ごすこと。
そしてこの不確かで流動的な生ぬるい冷気のなかで、まったりはしていられない。
二人を老けた女子高生みたいにはしたくない。
とりあえずは、想いとしての存在は彼女らの感覚にときおり触知されるものでありたい。
「いないこと」で出来る場所は、純化した想いの結晶の際立つ空間となる可能性はある。
せめて彼女らの脳裏に浮かぶ想いは彼女らを幸福に向けるものにしたい。
そのための時間を生きたい。
これからも隣に座ってお話をしながら。
これからどのくらい隣に座っていられるだろう?
隣に座っているだけでいい。

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最近、娘たちが隣に座って「お話」をしてくる。
わたしにとっては、その行為だけでなにかの意味を感じる。
隣に座られることで、彼女らが何か頼りがいのある話し相手のような気がしてくる。
確かに貴重な話し相手だ。
独身の頃は、猫だった。「ホキ」という真っ白なメス猫。
何より確かな話し相手なのだ。
次女とその話に乗った長女が、いろいろ話すのだが、結局「いないということ」はどういうことだ?
であった。
「いない」「ない」とはなにか。「ある」とは。
ハイデッガーか?ちょっと頭をよぎったが今喋れることは何にもない。
哲学的に「いないということ」を一般化して考える気にはなれない。
あくまでもわたしとこの話し相手のふたりの娘との間の話にしたい。
わたしの具体的な身体的場所からはなれず、はなそう。
まず、わたしは遠からず、あなたたちの前から姿を消す。
とは今は言えない。
次女はそういう事態にことさら抵抗を示す。
でも、はっきり確定していることは、それとなく知らせておいたほうが良い。
わたしはそれまでの日々をカウントダウンしながらこれらも書いている。
まだまだ書いたりつくったりしたいものは他にある。
それまでは、いなくなるわけにはいかない。
と、思っているが。
ヒトの生などボヤッとしていれば、あっという間に尽きてしまう。
短くとも効力のある生を送っていたなら、二人にとって意味を残せる。
何らかの価値となる。
わたしにとって重要なのは、生きられる時間を過ごすこと。
ふたりの小さな肩をこんなふうに感じながら過ごすこと。
そしてこの不確かで流動的な生ぬるい冷気のなかで、まったりはしていられない。
二人を老けた女子高生みたいにはしたくない。
とりあえずは、想いとしての存在は彼女らの感覚にときおり触知されるものでありたい。
「いないこと」で出来る場所は、純化した想いの結晶の際立つ空間となる可能性はある。
せめて彼女らの脳裏に浮かぶ想いは彼女らを幸福に向けるものにしたい。
そのための時間を生きたい。
これからも隣に座ってお話をしながら。
これからどのくらい隣に座っていられるだろう?
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