エヴォリューション

Evolution
2015年
フランス、スペイン、ベルギー
ルシール・アザリロヴィック監督・脚本
マックス・ブラバン、、、二コラ
ロクサーヌ・デュラン、、、ステラ
ジュリー=マリー・パルマンティエ、、、母親役
11年前の前作『エコール』はまだ観ていない。
思春期前の子供の精神世界~漠然とした不安、などを描くことが得意な監督か。
瑞々しい不安な感覚が何と言うかこそばゆい。
ともかく、大きな何か、、、思想や価値~メッセージを打ち出す類のモノではなく、幽かに残る間の時~トワイライトゾーン~を想起させるような映画であった。だからディテールが生々しくも残酷で美しい。
そして睡魔も呼ぶ。
オンド・マルトノで音を作っているそうだ。
なるほどと思った。あの独特な単音の作る空間。
映画そのものがオンド・マルトノの世界というか、ミニマリズムの世界である。
監督の狙いはよく分かる。
どうしてもすべてが象徴的に見えてきてしまうものだが、この時期の世界はとても濃くて重層的な意味に充ちている。
と謂うより、まだ意味が分化せずに(有機的に文節化せずに)豊かな塊として渦巻いてもいる。
この世界にどことなく郷愁を覚えてしまうのは、自分もかつていた世界の質感に惹かれるからか。
それを感じて場面を味わう見方でよいかと思う。
これを監督が判じ絵みたいに意味を組み込んだ、象徴を読み解く映画として見たら全く味気ないモノとなろう。
それはこの映画を観ていることにはならない。
単に特定の思想(の体系)に還元した別のモノになるだけだ。
しかしそういう「読み」を引き寄せ易い映画でもあろう。
確かに水に羊水、ヒトデとライトと星にステラとか、視線の向きなども含め、ある特定の世界~意味を志向することば(名称)や画像が特別な意味を帯びてくる、、、。
オンド・マルトノが効果的にその意味の拡散を留めている。

壁の緑はどういう変化であったのか、その辺も気にし始めたら解釈に気持ちが流れてゆく。
二コラの海パンは補色の赤である。ヒトデも赤、、、血も勿論。
そうしたところからも、かなり危うい映画ではあるが。
病院があまりに人間世界のものに似ている、とくに服装~手術着など、この辺で明らかに何らかの文化的な交流も見えてしまい、この種族の立ち位置が覚束ないモノにも思えてくる。
とは言え、捉えて来た男の子に施術して自分たちの子供を産ませるというこの女だけの種族に、妙なリアリティを感じる。
この母役をしている吸盤を背中に持つ女たちが深夜、群れを成して海辺でウネウネしている様子などまさに悪夢である。
夜の暗闇にこんな夢に近い恐怖と不安を抱えていた時期を今でも時折想い起す。
彼女たちに表情がないことから、人ではないことは最初から察しはついていたが、どうやら人間の男の子は彼女らにとって単なる外部生殖器に過ぎないもののようだ。この他者性。
この異物性。孤絶感。このしこりのような感情は何故かリアルに残っている。

その女の種族のなかの一人、ステラが二コラがかつていた人間世界に彼を帰還させる。
そう、彼は少年たちの中でただ一人、車や観覧車や実の母であろう女性の絵などをスケッチブックに描いていた少年だ。
(元居た世界の記憶があることが分かるし、彼のいる島の生活を対象化して捉える目を持っている)。
他の少年たちは彼女らの子孫を産んだ後、死んでいる様だが、彼はどうやら生かされて彼女の意志で戻されるようだ。
ステラは自分たちの子孫だけでなく、二コラ自身に特別な感情~意味を感じたようである。
彼を本来あるべき世界に生かしたいと思ったのか。
二コラを人間世界の灯の見える海上に独り残し、彼女はボートから何も言わず去って行く。

このことばのなさがとてもよい。
ことば以前の世界に同調させる。
二コラの再生の時である。
仮の母親役のジュリー=マリー・パルマンティエは『マリー・アントワネットに別れをつげて』にも出演していた。
広告でデヴィッド・リンチが比較に挙げられていたが、確かに生の原初的なイメージは通じるところを感じる。
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