テルマ

Thelma
2017年
ノルウェー・フランス・デンマーク・スウェーデン
ヨアキム・トリアー監督・脚本
エイリ・ハーボー、、、テルマ
カヤ・ウィルキンス、、、アンニャ (テルマの親友、恋人)
ヘンリク・ラファエルソン、、、トロン (テルマの父)
エレン・ドリト・ピーターセン、、、ウンニ(テルマの母)
ここでも信仰と抑圧の構図が見える。
重苦しいヨーロッパ(氷と雪に閉ざされた北欧)のキリスト教の闇がひとりの少女(の無意識)にのしかかっている。
何でもない日常の光景にずっと不穏な緊張を煽る効果音が響き続けるところは実に鬱陶しい。
ノルウェーの田舎はあんなふうに魚が下を泳ぐ氷の上を歩き狩りに出かけるのが日常なのか。
(何とも覚束ない地平である。テルマの世界を象徴するかのような)。
如何にも優しそうな父が猟銃を鹿ではなく幼い娘に向ける。
彼女もそれを察知するが、、、長じて父の優しい姿しか浮かばなくなっている。
この意味は後程、明かされる。

彼女は親元を離れオスロの大学に入学し、ひとりの女学生に出逢った時に激しい発作を起こす。
自分の内なる(性的な)欲望に目覚めた時であった。
ジェンダーの問題もあり彼女は自分のこころに戸惑う。
恐らく彼女は厳格な両親の元、幼い時からキリスト教にがんじがらめになっていて、自分の欲望に従うような行動をとったことがなかったのだ。
しかし抑圧を解かれた欲望の力は、尋常なものではなかった。
恐らく両親が死んだと偽り精神病院に幽閉している祖母も同等の能力を発揮していたのだろう。
(隔世遺伝であろう)。
イメージ界と現実が綯交ぜとなったシーンはどれも美しい。
幾つもあったが、終盤の湖の底に向け潜水を続け上がったところがいつもの大学のプールで、そこにはアンニャが待っていたところなど、特に眩かった。
こうありたいという(痛々しいほどの)生の欲望に接続するシーンだからだ。
現実とは、わたしが望んだことが現象したものなのか。
彼女は戸惑い混乱する。
神にすがり、罪を告白し懺悔する。
だが更に激しく彼女は引き裂かれてゆく。
文字通り、現実が幻想に吸い込まれる。
発作は続き、入院して検査をするが心因性のものであるとしか診断が出ない。
(癲癇検査はあのような激しい光刺激の元に行うのか。呼吸にしても。初めて見た)。

父に彼女はありのままを素直に告白する。
「愛してる人がいる。彼女もわたしを愛してくれているの。」
父は返す「それはお前が望んだからだ。寂しかったのだろう。」

父はそれをよく知っている。
テルマはまだ幼い少女時代に赤ん坊の弟をベッドから氷の下に瞬間移動させていたのだ。
彼女のそのころの記憶がないのはそのせいであろう。
自ら少女期の記憶を深く抑圧したのだ。
そしてキリスト教の厳格な教えの中に埋没してきた。
しかしこころを震わす対象に出逢い自分を偽らないことを彼女は選択する。
自分であることを自らに許す。
(厳格なキリスト教徒には大変な決断となった)。
やはりダダが生まれる土壌である。

一度は否定して消し去られたかと思われた愛する対象であるアンニャが姿を現す。
(これまで何処にいたのか?)
テルマがはっきり自分を認め肯定したところで、出現したようだ。
それには、父を亡き者とする必要があった。
父もボートで湖に独り出ることは、それを知ってのことであろう。
弟と言い、彼女の無意識の力による犠牲は大きい。
両親~宗教による強力な抑圧がなければ、弟も父も死ぬことはなかったか、どうか。
彼女は今恋人と共にしっかり自分を生き始めている。
久々に清々しいハッピーエンドであった。
わたしはこうした表現~映画は好きだ。
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