村山槐多

久しぶりに「日美」(NHKのTV)を見て、わたしは22歳で夭逝した村山槐多という画家をはじめて知った。
1896年〈明治29年〉9/15 ~ 1919年〈大正8年〉2/20
若くして天才として認められた画家であり詩人である。
高村光太郎から「火達磨槐多」と呼ばれたそうだが、激しく生き急いだ画家でもあった。
「ガランス」の赤からの連想でもあろうが、高橋 睦郎は彼を「血達磨槐多」と呼んでいる。
何れにせよ「ガランス」の画家と呼ぶのが相応しい。
どんな作品を描いたのか、初っ端から見て驚いた。
真っ赤な(「ガランス」の吹き出る)裸僧が合掌しながら大放尿しているのである。
強烈で壮観だ。ある境地に確かに辿り着いている。
それまでは、セザンヌ、ゴッホを強く意識した作品を描いていたが、、、
野獣派のような表現を独自に編み出したようだ。
「尿する裸僧」(イバリスルラソウ)は自画像でもあると思う。
彼の悟りの(真の)姿である。
村山槐多の19歳の作品。すでに晩年に近い。
これでいいのだ、という感じの絵である。
こんな傑出した作品~画家がいたことに、何やらこちらまで元気が出てしまった。

「紙風船をかぶれる自画像」
大正の青年は、こんなにモダンなのか、と思ってしまう。
この遊び心。軽やかなユーモア溢れるセンス。頭に紙風船を載せて実に似合っている。
親近感を呼ぶ。
きっと友達、ファンも多かったと思われる。
そして恋多き男でもあったようだ。
余りに激しい情熱をぶつけて相手をドン引きさせて逃していたらしい。
その失意の念を詩に書き、自らも含め多くの人を酔わせていた。
今生きていたらロックミュージシャンになっていたかも。
(モーツァルトがパンクをやっていたかも、と同じような意味で。詩人でもあるし)。
表現者として生き、死ぬしかない男であった。

彼が好んで使用した深い茜色の「ガランス」がもっとも鮮やかに使われた「カンナと少女」である。
ホッペの「ガランス」は秘めやかにこの娘の性格~個性を匂わせている。
香しい生命力に充ちた可愛らしい絵だ。
こんな絵を手元に置いておきたい。
イバリスルラソウは、一度見たらいつまでも後を引くが目の前に置いておくにはちょっと強烈。
近くに置くには太陽より月が心地よい。
この少女にも恋心を抱いていたようだ。
そして常に恋文のようなものを書き、詩を書いては人々を唸らせていた。

「湖水と女」
初恋の相手は中学時代の年下の男子であったそうだが、長じては年上の女性に恋をした。
しかし何と言うか自分の表現欲を刺激し高める相手~触媒という感じもしてくる。
それによって良い詩が生まれ、新たな絵が描ける。
全て(出来事~事象のすべて)は創造過程に統合されてゆくのだ。
詩が書きたい。絵を描きたい。「ガランス」を塗りたい。全てはその快楽に収斂されてゆく。
良い一生であったと想う。

「自画像」
彼は自画像を多く描いている。木炭デッサンでもそれが多い。
まるでレンブラントの夥しい自画像群みたいに。
わたしとは何か?これは最後に来る最大の謎なのかも。
そして死の間際には、木をひたすら描いていったと謂う。
一日でも多く生きてこの木を描きたいと願いつつ22で亡くなった夭逝の天才ではあるが、不思議に悲壮さはなく、何か妙に前向きにさせてくれるこの画家の力を感じる。
「ガランス」は大変官能的で生命力に充ち満ちているのだ。
生命と快楽。
何をおいても、この基本なのだということをこの画家の人生が再認識させてくれた。
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