ギュスターブ・モロー展に行く

新橋のPanasonic汐留美術館に会期の最終日1日前に滑り込んだ。
物凄く混雑しており、整理券が出されていた。
整理券を持って食事に行こうかとも思ったが、ちょっと微妙な待ち時間なのだ。
だからあちこちふらふらして時間を潰し入館時間に並んだ。
チケットを買う窓口まで、待つこと待つこと、、、これほど美術館に入るのに時間を要した経験はない。
(大概、行ったところで券を買って入っている)。
モローってこんなにポピュラーだったの?
ルノアールやモネやゴッホならともかく、、、。
色彩の乱舞するこころを高揚させるハーモニーとは明らかに異なる世界だが。
(わたしはバルテュスやボッチョーニに並んで大好きな画家であるが)。
しかし、この入場制限は正しかったことに気づく。
何時も人気画家の展覧会は会場内の人混みが尋常でなく、落ち着いて長時間気になる絵の前に立ち尽くせない。
(気になる絵のマチエール~タッチやディテールを観始めたらきりがないのだ)。
人の頭でなかなか見れなかったり、人の流れが気になりじっくり見れなかったりするものだが、自分の問題意識に沿って好きな見方でどの絵も悠々と見る事が出来た。
良かった!
わたしが大分以前、学生時代に模写した「一角獣」がありしみじみ見呆けた。
もう一つ模写した「オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘」は残念ながら来ていなかった。
(これは今も額に入れて飾ってあるので娘がここで見たらきっと面白かったろうに)。

代表作?そうユイスマンス的にいえば「L’Apparition(出現)」は極めてモロー的と謂えよう。
ここにも如実に見られるように、、、
ギュスターブ・モローは、色の付け方~塗り方~置き方が独自である。
画集ではなかなか分からないが、実物を近くで見ると、その入魂の大胆な一筆に呆気にとられる。
ベラスケスやフェルメールにも通じる大胆で計算し尽くされたタッチだ。
物凄く細密で規則的なシャープな線描が、水墨画を思わせる薄塗りの奥行きを持った空間と同居していたり、、、
抽象的で激しい動勢を伴う原色(又は高彩度の色)による厚塗りそのものもそれがあるべき部分を饒舌に充たす造形足り得ている。
通常、異なる複数の描き方~システムがひとつの画布(描面空間)に同居することは~絵としての又は主題としての求心性を逸してしまい~不可能なのだが、モローの象徴性(文学的抽象性)と過度な装飾性は、それらを必須の要素と化して呑み込んでしまう。
そして禍々しくも煌びやかで荘厳な美=狂気を現出させる。
ここで更に強調したいのは、前から気になっていたのだが、「パルクと死の天使」である。
この絵を敢えて言えばセザンヌに近いものがある。
パルク周辺が明らかに塗り残されているのだ。
セザンヌにも絵の中心あたりに塗り残しのある絵が幾つかある。
アングルなどには到底考えられないことであろう。
しかしこの絵の稠密性と深い神秘性の醸す重力は尋常ではない。
キャンバス地も造形の要素として昇華させていることが分かる。
彼は様々な実験を繰り返し、試せることは片っ端してきたのではなかろうか。
そしてそれらを見事なまでにシンセサイズしている。

今回の展示会では、習作や下絵~アイデアスケッチ風のモノやデッサンも多かった。
基本的にモローの作品は未完が少なくないのだが、それも究極的に仕上がった作品に等しい強度を感じさせる。
この意味では、彼の弟子でモロー美術館初代館長のルオーにも言えることだが。
モローの絵は誰にも追従出来ない孤高の絵に相違ない。
しかし決して閉じてはいない。
楼閣のなかの絵ではない。
(ある意味、モローの城のような「ギュスターブ・モロー美術館」には、是非とも行ってみたいが)。
モローは隠者の印象が強いがその密室で描かれ続けた作品は、未知の領域に幾らでも接続出来る開放性を持っている。
うちの娘たちも、並んでいる時はしこたま文句を言っていたが、いざ絵を観始めると、神妙な目でディテールを追い続けていた。
お喋りの絶えない次女でさえも、会場内では一言も喋らなかった。
やはり確かな磁力があるのだ。
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是非こちらも参照のほどを。
ブルトン~モロー 「ピエタ返歌」
ギュスターブ・モロー ~ 時刻表を持った隠者
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