バルタザールどこへ行く

AU HASARD BALTHAZAR
1964年
フランス、スウェーデン
ロベール・ブレッソン監督・脚本
アンヌ・ヴィアゼムスキー 、、、マリー
フランソワ・ラファルジュ 、、、ジェラール
フィリップ・アスラン 、、、マリーの父
ナタリー・ショワイヤー 、、、マリーの母
ヴァルテル・グレーン、、、ジャック
ロベール・ブレッソンのシネマトグラフ。
こう言ってしまえば、半分は見た気になってしまう。
期待を裏切らない。
冷たくソリッド。
しかし感情面を些かそぎ落とし過ぎたきらいは感じる。
つまり反応が不自然なシーンが幾つか見られた。
まるで人形なのだ。
芝居を許さぬ監督が、モデル(彼は役者とは呼ばない)に人ではなく人形を演じさせている。
これはリアリズムとは別の何かを思わせる。
しかし主人公はあくまでもロバなので、大した問題にも思えない。
人の動きなどしばしば書割のひとつくらいのもの。
純粋な彼の目が全てを見届けてゆく。
彼の名はバルタザール(東方の三賢者のひとりで神性の象徴である。ちなみに画家のバルテュスもこの名である)。
ロバである彼は自分の気持ちはあるが、その行動全般において人間に対し受動的であるしかない。
人の都合で次から次へ主人が代わるのだが、マリーの下にいた時以外は全て過酷な環境であり、相当酷い虐待を受けてゆく。
特にジェラールに使われる時は極めて悲惨だ。棒で殴る蹴るだけでなく尻尾に火を付けられる。
このジェラール一味は完全に箍の外れた悪である。
またその行いに対し、反発する者がいないのも不気味であり、あたかも自然災害みたいに受け取られているふしもある。
これだけ悪事の限りを尽くしていれば、普通はとっくに警察の世話になっているはずだが、いつまでも自由に振舞い、酒呑みの風来坊みたいな男を寄ってたかっていたぶり狼藉の限りを尽くしてもいる。
マリーの堅物の父親は、しなやかな感性のない為、徒に敵を作り、片意地を張り続け遂に上手くいくはずの事業を自らの手で潰してしまう。
村人も基本的に羨望と妬みのもとに他者が努力によって成功をつかみ取ることを許さない。
厳格で融通の利かない父といい、閉塞的で悪意に満ちた村といい、マリーにはそこからの解放を望む気持ちが大きかったはず。
そんな彼女のこころの隙間に付け込んで来たのがジェラールであった。
最初は嫌悪していた連中とつるむうちに彼女は自らを失い彼らに依存し呪縛されてゆく。
彼女にとって解放や超脱と思っていたものが、似て全く非なる感覚~感性の麻痺を齎す。

そんななか、幼馴染の温厚で誠実なジャックからの求愛を受けるマリーであるが、ゴロツキのジェラール一味から受けた外傷経験に蝕まれ、それを素直に受け容れる余地が残されていなかった。
誰もが普通に生きて、普通に精神を病み、滅んでゆくのだ。
そうした構造を透徹した目でしっかり見届けていたのがバルタザールであった。
結局、マリーはジャックと結ばれることを決心するが、ジェラールたちと手を切るために訪れた場所で彼らに乱暴されてしまう。
これを最後に彼女は姿を消してしまう(或いは自殺か)。
父は悲嘆に暮れ寝たきりになって衰弱死する。
母はたった一人となり、ロバだけをこころの支えとしていたが、ジェラールたちにそのロバ~バルタザールも奪われてしまう。
ここまでくるとジェラールという装置は我々の世界の普遍的な悪~災いとしての機能を果たすものか。
ジェラールたちが密輸に手を出しバルタザールに品を運ばせて行く途上で当局に見つかり、逃げ遅れた彼は被弾し、真白の羊の群れに取り囲まれて静かに息を引き取る。
この宗教的なシーン。
この最期の光景は神々しいほどに美しい。

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