エンジェル 見えない恋人

Mon ange
2016年
ベルギー
ハリー・クレフェン監督・脚本
フルール・ジフリエ、、、マドレーヌ
エリナ・レーベンソン、、、ルイーズ(エンジェルの母)
マヤ・ドリー、、、マドレーヌ(10代)
ハンナ・ブードロー、、、マドレーヌ(幼少期)
映画らしい映画を観た。
ハリウッドの金を使いたい放題使いまくった大袈裟な映画ばかり観ているとやはりおかしくなる。
こういうものを見ないと。
そもそも映画に飛んでもないお金をかける必要はないのだ。
CGは使っているが、ほとんど役者~マドレーヌの演技だけで成り立っている。
カメラワークも特異だが、この映画の文脈上不可避な肌の肌理まではっきりわかるほどのアップ~触覚的接写がとても多い。
感覚の研ぎ澄まされる森の中の湖畔の屋敷と精神病院。自然音や光が微分的に際立つ環境の設定。
カメラの視界の揺れ(またはぼやけ)ははっきりと見えない主体の視座に共感させる。
生活感が全くないアーティフィシャルな抽象性が際立つが、この物語にとって雑多なノイズは不要だ。
その省略が斬新でもある。お陰できっと制作費もかからなかったと想える。
コンセプトがしっかりしていれば、見事なものが出来上がるこれが良い例と謂えよう。

エンジェルと謂う透明な存在とマドレーヌと謂う盲目の少女の稀有な邂逅が、日常の自明な関係性というものを改めて問い直させる新鮮さがある。(透明エンジェルという基本設定は、思い切ったものだが、一種のお伽噺において不自然さなど感じさせない)。
これを哲学書で読んだらつまらぬものになろうが、このような繊細で抒情的な映像で描かれると感情的なレベルからの実感及び反省的思考が生じてくる。
透明なエンジェル(少年の名前であり、その存在を象徴する名詞と謂える)は、嗅覚と聴覚の異常に鋭い盲目の少女の前では完全な形で存在することが出来る。
すぐに打ち解けて、仲良く遊ぶようになり、かくれんぼがお気に入りの遊びとなる。
視覚以外の感覚で気配を追う。近くに感じることの存在感~実在感。
そして触れ合う、確かで対等な関係性が結ばれてゆく。
(よく「触れ合い」と謂われるが、本当の触れ合いは視覚がかなりの邪魔をしていることに気づく)。

だがエンジェルにとり、なくてはならぬ存在となったマドレーヌは目を治すための手術を受けることとなり、その地を去る。
エンジェルはひたすら独りで待つ。彼に友だちは出来ない。
数年後、彼女は戻って来る。
だが、もう目で世界を認識する身体性が基本と化しており、彼が傍にいても以前のように気づくことがない。
視覚の優位性が身についているのだ。
触覚を肝心な関係に置く母子間におけるような暖かな親和性から離れ、物事に距離をもち対象化~記号化して管理する視覚世界に身を置けば、見えないモノは遠ざかってしまうだろう。
相手に身を委ねる対等な関係から相手を離れて観念的に支配する暴力的関係への移行である。
そう、見るという行為はいたって暴力的である(見方の問題もあるが)。
彼女は改めて彼の姿を目で確認し激しい動揺をきたす。
手では触れたのに何にも見えないのだ。
子供の頃は、全く自然にお互いを認知し合っていたのに。
彼は彼女と別れる決心をする。
逃げる彼を追い求め、彼の住処の湖畔の小屋までやって来て、彼女は彼を見つける。
しかし彼は湖に飛び込んでしまう。
彼女も飛び込み、必死に彼を救い出して命を助ける。
ここで、彼らは結ばれる。

つまり、そのままを受容する。
触れ合いそして見つめ合う。
「こころであなたの視線を感じる」。
極めて近距離で見つめ合う行為は、母に抱かれた赤子と同様の呼吸の律動に同期できる対等の視界である。
彼らの間に、透明でなく目も見える赤ん坊が生まれる。
親子の記念写真を3人で撮るが、若い母親と宙に浮かんだ赤ちゃんだけが映っている。
ハッピーエンド。幸せそうである。
フルール・ジフリエが独りで頑張った。
ハンナ・ブードローとマヤ・ドリーのふたりも歳相応の爽やかで凛とした演技で、とても自然にフルールに繋いでいた。
清涼飲料を飲んだ後の感覚でいる、、、。
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