遠藤彰子先生と語る

やっと本来のテーマに戻った。
当ブログは、美術ブログであって、葬式について語る場所ではない(笑。
(わたしが勝手に語っているのだから仕方ない)。
本日、日本を代表する画家である遠藤彰子先生の講演会に出席した。
予約席は直ぐになくなったということで、通知を貰ったところで早めに電話を入れておいてよかった。
遠藤先生のお話が拝聴できるとなれば、直ぐ満席となるのは分かる。
わたしは美術の教科書で先生の絵を初めて見たときからの大ファンである。
(相模原市民ギャラリーで巨大な絵を幾つも観た時のインパクトはずっと残っている)。
2年に1度開催されるカナガワビエンナーレで、前回の「国際児童画展2017」の小展示会の会期中、タイアップして審査を務めた遠藤先生の講演会が設けられたということである。
今10歳の娘が7歳の時描いた「かめとの遊び」のコピーがデンと飾ってあったのには、びっくりした。
(他の絵は全てオリジナルであったが)。
娘の本物は別の展示場に飾ってあり、ここではコピーがパネル化されて飾られていた。
わたしはその絵の関連だとは思っておらず彼女が最近、他の展覧会で受賞した絵かと勘違いしていた。
少し忘れかけていた絵であったが、長女が受賞した最初の絵であったので、感慨深いものである。
88か国から25000人を対象とした絵画展で、「独立行政法人 国際交流基金理事長賞」という覚えられない賞を貰ったものだ。
(「国際児童画展2017‐Ⅰ」、「国際児童画展2017‐Ⅱ」)
大画家でありながら威圧感や高圧的な態度など微塵もなく、誰にもとても暖かく気さくに接する姿勢に先生のお人柄だけでなく、全ての物事を等価に観る姿勢~哲学が基調として窺えた。
今回は子供の絵を形作る「感情」の力に力点をおいて話されていたことがまず印象に残る。
(特に10歳に満たない子供に特徴的な点である)。
確かに感情によるイメージの喚起力は独特であろう。
ものの大きさ、色彩、形体~構成は謂わば、感情の文法に従い生成・再現される。
この面白さ素直さ力強さを強調しておられたが、われわれも納得するし同感だ。
ここに客観的な写実~遠近法の入り込む余地はない。
(しかしこれは単に、その描写法~システムを知らないところから来ているとも謂える)。
子供は遠近法により空間を整序することを成長するにつれ自然に学んでしまう。
そこに配置されるモノ同士の関係や色彩、個々のディテールの描写も写真的な画像へと写実されてゆく。
(これは画一化や形骸化にも繋がる恐れも孕む)。
では、そのなかで如何にまた感情を揺り動かす「絵」が可能となるか。
ピカソのように方法論的に人の原初的イメージに回帰する表現もひとつであるが、わたしの質問に対して先生がお答えになった、写実を徹底して進める方法もあるということだ。
今、娘は写実段階にはっきり(ある意味、不可避的に)進んでいる。
余計な口出しはせず「寄り添いなさい」ということである。
凄い写実が生まれる場合もあると。
謂われていることは、単なるスーパーリアリズムとかいうレベルではない。
写実が極まって異化された現実の次元だ。
小説でいえば、カフカのような。
では、先生はどのような方法論~突破口を開いているかというと、、、。
人同士や物との関係が極めて歪となった現代が抱える不安や焦慮を無意識の層まで降りて描き尽くそうというものである。
絵は元々形式上それがやり易い。
もっともダイレクトに出来るのは音楽かも知れないが。
それには自由自在な表現を可能にしなければならない(集合無意識を扱うのなら)。
そこで、「重力のコントロール」を導き出す。
空間には遠近法の消失点が複数あり、上下左右も任意となる。
しかし元々われわれの宇宙とはそうしたものだ。
運動も然り。全てが生々流転する壮大なうねりの中にあり、それはまた循環~回帰してゆく。
そう、永劫回帰。
この自由自在な表現~重力コントロールを可能とするには不可避的に巨大画面を要請することとなった。
これは先生が幼少時に家の前の路面にロウセキで毎日描いていた「何処までも続いてゆく鉄道」の絵の集大成に向ってゆく。
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