叔母が亡くなる

8年間意識がなく病院のベッドで眠り続けていた叔母が亡くなった。
(知覚を閉ざしている印象から意識がないと思えるのだが、触覚など非視覚的な感覚は分からない。もしそれがあれば非視覚的な表象は結んでいたと考えられ対外的精神活動は別な形で維持されていた可能性はある。それは脳波検査でも分かるか、、、そういったところに立ち会う立場ではないためわたしは知らぬが)。
脳が死んだということで、死亡となったわけだが。
外界との少なくとも言語的な(あらゆるサインも含む)関係(コミュニケーション)は一切持たずに8年間生命活動~代謝は維持していたのだ。
植物のような在り様を連想するも。
徐々に衰えつつも爪や髪は伸びてもいて、歯医者にもかかっていたようだ。
外部との関係性を考えなくとも、脳が生きているのなら潜在する何らかの活動はあったと推測される。
体は全く動かず対他的な関係を持てなくても。
表面的には生命の印象がほとんど洗い落とされていても。
叔母を表象する属性~表情が見事に欠けていても。
何かが宿っていたと考えられよう。
ほぼ完全に閉ざされた純粋な精神そのものが記憶のストックから生まれる様々な想念を生み反芻していたのだろうか。
幼い日の想いの片々等々を素材に変身を繰り返すとか、ありがちな連想が直ぐ浮かんだりするが、、、。
植物状無意識とでも謂える静かで明るい想念の海を漂い続けていたのかも。
いや想像を寄せ付けない異質な何かが生成されていたのかも知れない。
ただ、その世界をまさに生き続けていたとすれば。
つまり夢を見るのと同様に。
ひとつの現実(時空間)~固有時を普通に生きていたと謂える。
そう考えるとわれわれの日常生活と何ら変わりなくなる。
実はわたしもひとつの現実=夢を生きているに過ぎない。
夢か現かなんて原理的には分からない場所をわたし~われわれは生きている。
こちらで謂う8年をどう生きていたのか。
と謂うよりわたしは今何処に生きているのか、疑わしくなってくる。
足元が定かではないのだ。

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