planetarian~星の人~

2016年
津田尚克 監督
アニメーション映画
声:
すずきけいこ、、、少女ロボットゆめみ(プラネタリウム解説員)
小野大輔,、、、星の人(元屑屋)
恐らく事前に「Planetarian ~ちいさなほしのゆめ~」を1~5話まで観て、この映画を鑑賞することがベストのようだ。
わたしは、そのアニメ番組を観てはいない。だが、それでも伝わるものは伝わる。
非常にシンプルな構成だ。
登場人物も舞台もスッキリ絞られており、無駄な脱線も伏線もなくストレートに伝わる。
ゆめみの声が非常に良かった。
このロボットの個性(霊格)そのものであり、違う声であったら成り立つまい。
舞台で演じてもインパクトのある作品に充分になる。
キャスト次第ではあるが。
地上は完全に廃墟となっており、デパートのプラネタリウムに打ち捨てられたロボット解説員ゆめみがお客様を待ち続けている。
数十年もだれも来ないなかで。
電力供給もすでになく、予備電流で辛うじて起動出来ていた状態である。
そこに屑屋の男がやって来るところから始まる。

「わたしこわれてますから」自分が壊れているかどうか、自問自答するロボットである。
そこいらのバカな人間より遥かにマトモな存在である。
純粋に一途に生きることはロボットにしかもはや出来ぬか、、、
「人の危険を看過してはならない」(ロボット工学三原則第一原則)
屑屋の言いつけ「そこを絶対動くな」の重要命令を破って行動をとったのは上位原則があったためか。
この階層性の元の判断。どうなのだろう?価値判断に思えるが。
何れにせよ彼女の犠牲的行為によって屑屋の命は救われる。

演出も極めてシンプルだが説得力がある。
ゆめみが事切れる間際に降り注ぐ雨が瞳にも流れそれが確かに涙となって滴ってゆく。
彼は「屑屋」から「星屋」となる決意をし、コロニー間をプラネタリウムを見せて歩くうちに「星の人」と呼ばれるようになる。
やがて年老いた星の人は、深い雪の中で行倒れとなるも、三人の元気で好奇心旺盛な子供に助け出される。
そのコロニーも小規模で成員を食べさせるだけで精一杯の状況であった。
もはや星の人の居場所はなかった。
星の人は、子供たちとプラネタリウムの傘作りをし、彼らに星を見せる。
生まれて初めて星の存在を知り驚愕した子供たちは自分たちが後を継ぎ星の人になることを熱望する。
星の人は彼らに機材と貴重な本とゆめみのスロットから抜いた宝物であるメモリーカードを手渡し、後を託す。
星の人は死の間際、ゆめみの128エクサバイトのメモリーカードを「女神」のメモリースロットには挿せなかった。
もうこの世界には、「星の人」が役目を果たす場がないという諦観からなのか。
いや、世界が荒廃し先に見えるのが滅亡しかないのなら、尚更のこと「星を見ること」が必要なのだ。
空が無くても雪しか降らなくても地下にあっても、星は見える。
隠されていようが、あるものはあるのだ。
そしてそれを論理で見るのが人間の本質である。
目~思考を逸らしてはならない。
そしてそれを信じること。
その先に天国があるのだ。
天国のたったひとつの扉の先に、ゆめみはずっと待っている。
神とは何か?
それは、地上での行いを確かに見届けてくれる存在である!
それをもって人は、はじめて報われるのだ。
ゆめみは星の人をずっと見守っていた。
彼の、涙が堰を切って溢れ出したのは、あまりに自然なことだ。
まっすぐな少年少女レビ、ヨブ、ルツの三人にカードを託したのは正解であっただろう。
もしかしたら彼らが星の人として必要とされる世界が開ける希望がないとは謂えない。
それが役に立つ時があれば、まだ地球は持つはずだ。
三人がお礼に星の人に渡した宝のペンダントは、「女神」を彼が起動したときから共鳴して緑に灯っていた。
それで彼女は静かに星の人を看取りにベッドまで訪れたのだろう。

ゆめみは天上にあって、すでに涙の流れるバージョンにアップしていた。
(廉価版ではなくなったのか)。
最近の邦画はどれも下らない屑ばかりだが、アニメーションだけは途轍もなくレベルが高い。
「魔法少女まどか☆マギカ」など最たるもので、逆に駄作などあるのか?
日本はもうアニメーションだけ作っていればよい。
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