マグダラのマリア

Mary Magdalene
2018年
アメリカ、イギリス
ガース・デイヴィス監督
ヘレン・エドムンドソン、フィリッパ・ゴスレット脚本
ヨハン・ヨハンソン音楽
ルーニー・マーラ、、、マグダラのマリア
ホアキン・フェニックス 、、、イエス・キリスト
キウェテル・イジョフォー、、、ペトロ
タハール・ラヒム、、、イスカリオテのユダ
わたしにとっては、ベルイマンの映画を観るような感覚で味わえた。
マグダラのマリアは、わたしが学生時代のころは、キリストの教えに目覚めた娼婦という立場であったが、ここでは12使徒と同等の立場であり、彼らの誰よりも覚醒したキリストの教えの第一の体現者の女性であった。
当時の女性でこれほど何から(パラダイムから)も自立してものを捉える感覚を有していた人がいたのだ。
特異な個性と謂える。
何よりルーニー・マーラの目である。純粋で神聖な目である。
これに尽きる。
そしてキリストがやけに人間臭い。
お説教好きの風呂屋の親父と謂ったら言い過ぎだが、他の映画に出てくる見るからに神聖な孤高の超絶感は薄い。
だがとっても人のよさそうな母性本能を擽る雰囲気のキリストである?
特にホアキン・フェニックスである必要性も感じなかったが、こういう肉付けのあるキリストの方がリアルにも感じられる。
奇蹟をおこなっても息切れしていて何だか泥臭い。
一番新鮮であったのがユダの描かれ方だ。
わたしはキリスト教には疎いため知らなかったが、最近はこういう解釈になっているのか。
キリスト関係の映画でこのようにユダを描いているのは、新しいこの作品だけではなかろうか、、、。
純粋で素朴な親近感を持ってしまう男であり、悲劇的な人である。
このユダも余りに人間的なのだ。
ある意味、キリストの神性をもっとも盲目的に信じ切っていた人なのかも知れない。
そして余りにそれに依存し過ぎた。王国が天を割いて降りてくるのを真剣に信じていたのだろう。
それをキリストの超人性が実現してくれるのだと、、、。
結局使徒たち誰もがキリストを利用しようとしていたことには変わりないなかで、マリアだけがキリストの謂う自らのうちに見えない王国を描いていた。
彼女はまず変わらなければならないのは、この外界ではなくわたしなのだということを強調する。
自らが変わることで自ずとここに王国が出現するのだと。
こういった思考形式は、他の使徒には直ちに納得は出来ない。
そしてマリアは独り出てゆく。
マリアにはキリストが見えた。
マリアだけは、実際に復活したキリストに遭うことが出来たのだ。

エル・グレコによるマグダラのマリア
ヨハン・ヨハンソンの音楽が秀逸であった。
もしわたしが当時、イエスに出逢っていたなら、間違いなく洗礼を受けてエルサレムへと彼の後を追っていったと思う。
この映画の光景であれば。
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