古美門風に行きましたが、最後は通常運転で

ブログを書く事に虚しさを覚えることが多くなりました。
良い区切りでもありますし、これを最後にという気もしております。
しかし、これまで何か書く事が生活の一部にもなってきており、娘(長女)5歳が私の真似をして
キーを叩き喜んでるのを見ると、娘と一緒にもう少し続けてみようかという気もしてきます。
が、さしてこれ自体に執着はありません。
でも、真っ白い面に小さな何かの意味を秘めた魅惑的な暗号が列をなして並んでゆくのを見るのは
ワクワクするのでしょうね。
わたしにとっても、いまだにワクワクがあります。
なくなったら、そのときが潮時です。
文字というものは、そういうものです。
詩はその最たるモノです。
物に一番近い抽象物質ですから。
音が響くような物質的な想像力を触発する文字には魅惑されます。
文字そのものには何ら意味も魅力も価値もありません。
しかしその文字がどのような流れ・コンテクスト・層のなかで綴られているかで輝くものが現れます。
オーラが見えます。
わたしは実は文章全体を読んでその思想に感銘を受けることより、本当に短いセンテンスやことばー文字そのもの(もう少し詳しく言えば文脈のうちにはじめて生成された意味ー価値)に酔うことが多いものです。
それを暫く咀嚼しているうちになんとなく全体がわかってくる、そんな読書です。
部分に全体は反映しています。ホロン(アーサー・ケストラー)としてのあり方。
或いは建築家ミース・ファン・デル・ローエの「神様は細部にいらっしゃる」
娘を後ろから眺めていると、初めてのものに純粋に驚く瑞々しい姿が見て取れます。
柔らかな光に包まれていてとても愛おしいと同時に羨ましい。
モネがとても羨んだ、ずっと盲目でいてあるときはじめて「ものー光の渦」を認めた者のように描きたい
という願望。
小さな子は、その只中にいますが、そのこころ・気持ちを対象化出来る場所にはいない。
もどかしいものですが、そういうものです。
吉本隆明の説く原生的疎外に対する純粋疎外の位相が機能するまでに成立していない。
柄谷行人がいみじくもひとことで言ってくれた、「心についての心」です。
ですから、ある意味エルンスト・マッハの全力を尽くして少年期に戻る努力!が運命つけられているのですね。
わたしたちには。
いろいろ遊んではみますが、大人が遊んでみてもたかが知れています。
奥さんにぼくお利口さんでしょと言ってお食事をしていたという高名な物理学者(名前ど忘れしました)などは微妙な線をいっています。とかく研究者は特異点を得意な場所でキープしていることがあります。
これから生活者としてどのようにこの世を過していったものか、少しだけ考えてみたいです。
今月、20記事。
この程度が丁度です。


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