暫く沈潜

前回からの続き、、、
ゾンデを幾つも垂らしている。
狙いはほぼ定まった。
存在の根っこの部分にいよいよ向かい始める、、、
冗長性やノイズもあるし、ブレもあるだろうが、見当違いはない。
まだ根っこに達するまでには、聊か時間はかかるが。
重度の回避性愛着障害である場合、いや不安性であっても同様に、必要な時期にそれに相応しいものが与えられなかった結果であることから、もう取り返しはつかない。
無意識~身体性の反復パタンを収めるには、単に過去の愛着関係の疑似的想起・再体験とその修復というレベルでは、構が弱い。
過去を想起して、と言っても必然的に(自らによって)編集された物語である。
勿論、それに付随する感情に焦点を当てるにしても、それで水に流せるのか。
そういった個別的(局所的)レベルなのか。
それは、恐ろしく個人的な場所で密やかに発生しているように見えながら、普遍的な社会問題としても成り立ってしまう。
そもそも幼児期を欠如でもなく過剰でもない生を送った者がいるだろうか。
何れにせよ、社会~文化そのものが様々なパタンの愛着障害を原動力に出来上がっていると言える。
その社会とは、自らの自我が無意識的に拒絶した影の投影であった。
これはイコールと捉えられる。
すると、幼少年期の気分的な手直しで埒のあくものではなく、現在の自我の解体自体が必要となる、恐ろしい作業が控えていることが分かって来る。
何れにせよ、母との和解などという事が出来ようはずもない。
これほどあり得ない絵空事はない。
機械状に無意識的に母親は自分の抱え持ったトラウマを埋める為に、生の尽きるまで子供を貪り続ける。
であるからこそ、われわれ(わたし)は、このような事態に(およそ不可避的に)陥ったのだ。
単に分かれる~断絶するとかしても何の変化もあるまい。
消費されないレベルにまで自我解体すること。
違う者になること。
(空間的に離れたところで、何の意味もない)。
社会が違って見えるところまで。
解体を果たす。
異なるモノへと再組織化を図る。
ではないか。