暗黒街のふたり

DEUX HOMMES DANS LA VILLE
1973年
フランス、イタリア
ジョゼ・ジョヴァンニ監督・脚本
アラン・ドロン、、、ジーノ・ストラブリッジ
ジャン・ギャバン 、、、ジェルマン・カズヌーブ(保護司)
ミムジー・ファーマー 、、、ルシー(ジーノの新しい恋人)
ミシェル・ブーケ 、、、ゴワトロー警部
イラリア・オッキーニ 、、、ソフィー・ストラブリッジ(ジーノの妻)
ジャン・ギャバンのとっても渋いナレーションで進む。
いい感じだ。これが彼の最後の映画となったそうで、感慨は一際である。
この保護司の役が余りにしっくりくる。人の長所を伸ばそうとする深い愛情と思慮のある重厚な人格が窺える。
冒頭からフランスではまだギロチンによる処刑が行われていることが淡々と語られる。
最後にアラン・ドロンがギロチンにかけられあっけなく処刑される時に、ジャン・ギャバンとの目と目で語るシーンは確かに印象に残るが、ポイントはギロチンなのか?
主人公の半生は興味深いものであるが、映画そのものは面白くない。
アラン・ドロンとジャン・ギャバンの名優2人が素晴らしい演技を披露しているのに、ピンとこない映画なのだ。
ギロチンは置いといて、アラン・ドロン扮するジーノの刑務所出所後の生き様を追うと、、、
今、わたしの住んでいる地域社会と何ら変わることのない世界が描かれている。
この映画の舞台をそのままわたしの界隈に嵌め込んでも行けるものだ(笑。
エキストラ陣も充実しているぞ~。
こうした映画で決まって論じられるキーワードに、先入観や不寛容、他罰主義などがあろう、、、確かにそうなのだが、、、何と謂うか、自分の抱えている矛盾や不条理を誰か(スケープゴート)に投影して特異な凶悪犯に仕立て上げて(生贄として)処分したいという取り巻く者たちの無意識が強烈に見受けられる。自分に対する内省に向かわず、自分の内界を他者に投影していることに気づかない。
代理処分で合理化しようという虫のよい堕落しきった(思考停止した)思いである。
ひとえに知性の欠如の成せる業に他ならない。これだからバカは困る。ホントにウザい。まさに暗黒街と謂えよう(爆。
だが、バカは必ずやり過ぎて墓穴を掘る(これを自業自得という)。ここではゴワトロー。こういうのは、何処にでもいる。
(邦題の暗黒街とは、何を意味しているのだろう、、、ただこれだとマフィア組織の噺という「先入観」をもつだろう)。
この映画、裁判所で弁護士が出てくるシーンが非常に弱い。
映画をつまらなくしているところがここだ。
ジーノが不可避的にゴワトローをはじめとする警察権力によって犯罪を犯さざるを得ないところに追い詰められた過程における弁護ではなく、刑務所の劣悪な環境とかギロチンによる処刑制度の批判などをずっと熱く騙っている。
制度に関する一般論で彼の刑を軽く出来るはずなかろう。
所謂、ジーノ個人(個人史)を改めて衆目の前に晒してそれを読み直すことを全くしていない。
実にとぼけたやつである。わたしだったら、こんな弁護人など直ぐに願い下げだ。
人の歴史は多様に幾らでも読み替えが利く。検察側の読み以外の読みを披露する必要がまずある。
如何にゴワトローたちにジーノが彼の新たな普通の生活を営むことを妨害されてきたか、それらの積み重ねに対し彼がどれだけの苦痛と忍耐を要してきたかをまず問題化しなければならない。
恋人がああだこうだと言っても説得力はない。
弁護士は、人権無視の行き過ぎた捜査が犯罪者を作り上げる過程~物語を語って聞かせる義務がある。
ゴワトローはわれわれは人を疑う職業だと言っているが、そこには人に対する悪意以外見出せない。
だがこの悪意が空気に染み渡ってどこまでも広がっているのだ。
特定の先入観などというより、偏在し潜在する悪意とでもいうべきものが確かに基底を成している。

それを象徴しているような刑務所の壁に沿って歩んでゆくジェルマン。
ナレーションで、「この壁の中にまだギロチンが存在する」で終わる。
しかし別に電気椅子でも同じではないか、、、。
いや、死刑制度云々ではなかろうに。
それなのか?いや、ジーノの刑務所出所後の生き様を考えると、そこではなかろうに。
何が言いたいのか、この映画。
新しい記事を汚さない為に、この記事に改めて追記する。
途轍もなく頭の悪い品性下劣極まりない糞屑が、この記事をGoogleに著作権がどうしたとかの訴えをしたらしく一時、検索から外す用意があるみたいな通知が来た。これも一方的なおかしな話だが。
勿論、不服申請はして認められたが、何なんだこの馬鹿は、ではなくこの犯罪者はである。
そもそもこれは完全にわたしの100%オリジナルであり(言うまでもない)、わたしの記事の中では、創造性は無く在り来たりな部類のものである。特に目立つものではないが批判性が多少あるところで、そこに何をか引っかかる所でもあったのか。馬鹿なりに。飽くまでも馬鹿なりに、である。しかし批判性であれば、もっと他の気の利いた記事があるのだが、、、。
その輩も含めだが、ここにあげたド低能のド糞馬鹿の滓屑に対しては、勿論今も怒りは指数関数的に増幅してはいる。だが、それはそれとして、わたしにとってまるで敵ではないことも確かである。これが肝心。どうでもよいものに構っている暇などもはやない。
但し、心底侮蔑に値する屑であることは間違いないため、とりあえずここに記するものである。
千回八つ裂きにしても足りないが、、、
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