太陽がいっぱい

Plein soleil[
1960年
フランス、イタリア
ルネ・クレマン監督・脚本
ポール・ジェゴフ脚本
パトリシア・ハイスミス原作
ニーノ・ロータ音楽
アラン・ドロン 、、、トム・リプレー
マリー・ラフォレ 、、、マルジュ・デュヴァル
モーリス・ロネ 、、、フィリップ・グリーンリーフ
エルノ・クリサ 、、、リコルディ
ビル・カーンズ 、、、フレディ・マイルズ
フランク・ラティモア 、、、オブライエン
アヴェ・ニンチ 、、、ジャンナ
BSで観た。
遠い昔に観た映画で、ほとんど記憶はなかったが、テーマ曲が流れて随分懐かしい思いがこみ上げて来た。
とっても虚しい。
ボートのスクリューに醜く絡みついたワイヤー。徐々に引き釣り出されるその先の布に巻着つけられた死体は覚えていた。
中身はほとんど忘れていても、その禍々しい異物は潜在意識からはっきり浮かび上がって来る。
何と、この映画の原作は昨日観た「アメリカの友人」の原作者によるものである。もっともこちらの方が17年前のものであるが。
驚く。恐らくこちらの方が出来が良いのでは。
映画としてのディテールの質感(物質感)はこちらもよく描写されている。トムが散歩を始めると市場で何気なく足元に落ちている魚の不気味な頭の切り身が彼の入り込んだ新たな時間流を示唆していた等々、、、。
(多くの映画で市場は不穏な空気に充ち、幾つもの亜時間への出入り口が潜んでいたりする)。
全体に、演出がきめ細かく、自然~風や波、太陽光を巧みに利用し、不安と緊張を高めている。
そしてトム・リプレーという男の決して運命を変えられない絶望の生き様を饒舌に騙ってゆく。

アラン・ドロンのぎらついた目が終始印象的であったが、彼はもう少し歳をとってから精悍な美男子という感じになってくるな、と思った。まだ若過ぎて、悪事に陶酔している姿から、欲望丸出しの軽いチンピラにしか見えない。
勿論、ナルシシズムはたっぷりある。
鏡に向かってフィリップの服を着て、まるで彼の人格になったかのようにマルジュへの愛を囁き、キスまでする、、、。
(そう謂えば、淀川先生が、トム~フィリップの同性愛を指摘していたような、、、)。
これでは、マルジュに上手くすり寄っても、彼女は靡くまいと思っていたら最後に淋しくなってしまったか、、、。
そう、人は、淋しくなってしまっては、ダメなのである。
依存の始まり、、、そこに良いことは断じて、ない!
本まで書いて自立を目指している女性は、ここで妥協はしてはならない。
(とは言え、フィリップの言う通り、マルジュの「フラ・アンジェリコ論」は月並みな出だしだ(笑)。

筆跡を真似、声色を使い、パスポートを巧みに偽造し、タイプライターでラブレターや遺書まで捏造して相手を操り、想定外のことがあっても瞬時に言い訳をするところまではともかく、人を殺してしまったら大概、それまでとなる。
死体の処置とは、思いの外厄介なのだ。
(どの映画を観てもそうだ。死体から足はつく)。
いやしかし、このトムにとって、殺人だけは通常の彼の振舞いから逸脱した異質の行為であった。
謂わば、彼自身の生の行為となってしまった事で、彼の計略を逆に打ち砕くことになったか。
トムはフィリップにある意味同一化を無意識に図っていたところがあるが、これもフィリップへの依存とも謂える。依存、、、トム自身、他人の金で暮らすことしか考えられず、その手段、方法は全て筆跡、声、ID,書類、、、須らく他人の真似~成り済まし~究極の依存で済ませて来たものだ。
基本、自分というものがない。フィリップに従属し羨望の意識で生きて来たと謂える。
あったのは、フィリップを刺し殺すとき、と他に打つ手がなくフレディを鈍器で撲殺したときか。
この殺しは明らかに、手段としての成り済ましで急場を凌ぐ部分はあったにせよ、これからの自らの人生を生きる為の彼にとっての一か八かの前向きな投企であった事は確かだ。
だが、それが彼を破滅に導く。
彼にとって依存~同一化か殺人~抹消以外の選択がなかったこと自体が悲劇である。
これは彼の教育(養育)環境によるものか、彼自身の資質からくるものか、、、。
恐らく、フィリップとの会話からして、両者によるものだろう。

やはり最後のシーンが圧巻であると思う。
完全犯罪を成し遂げ、マルジュと仲良くなり、まさにこの世の春である。
「太陽がいっぱいだ」。
離れた港では、マルジュの悲鳴が響く。
人生最高の瞬間を海辺でじっくり味わっている時に、「リプレーさんお電話で~す」と呼ばれる。
店の奥には鼻の利く刑事が鋭い形相で控えている。
トムはまだ何も知らず、笑みを浮かべて歩いてゆく。
この強烈で静謐な対比。
確かに太陽のせいだ。
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