ボーイ・ミーツ・ガール

Boy Meets Girl
1984年
フランス
レオス・カラックス監督・脚本
ドニ・ラヴァン:、、、アレックス
ミレーユ・ペリエ:、、、ミレーユ
キャロル・ブルックス、、、:ヘレン
アンナ・バルダッチニ、、、フローレンス
「汚れた血」も「ポンヌフの恋人」もとても入り込み易かったのだが、これはどうしても眠りに入ってしまう。
「夜」の映画で、モノクロの画面は何とも心地よいが、断片的で詩的で忙しない、、、。
ふっとどこか見損なったり飛ばしてしまっている。
セリフ過多の映画である為、映像より字幕を見てしまう率が高く、映画として見難い点も大きい。
フランス語に堪能な人向きの映画である。
噺に流れや方向性は特にない(物語性が生じそうになると拒絶している)。あるのは詩的な断片性とでも呼ぶべきものだ。
しかも詩をよく咀嚼するというよりも、映像に専念すべきところか。
(わたしはお陰で余り映像が見れなかった。まるでながら見をしている気分であった)。
部屋の額入りの絵を外すとこれまで自分がやって来たことの地図~見取り図が描かれていたが、お洒落だ。
真似してみたくなった。
そこにちゃんと道路と川沿いの間で恋人フローレンスを奪った親友を殺そうとして未遂に終わったことも記されている。
これは、お洒落だ。
ホントにやってみたい。

暗転が動悸のように入って来る。
忍び込んだパーティーに居座る。
カップの割れ目からミルクを飲むアレックスは人生をやり直したい。
トイレに行きたいが使用不可であったり満員だったりで
その間ピンボールを知らないおじさんとやり続けたり。
そう謂えばタップダンスをフローレンスがひとりでやっていたり。
ひとつのシーンが充分に長いのも特徴。
わたしはその長さは好きだ。

モノローグとことばの奔流
苦悩を音楽にしない為に喋り続けるのか
然し詩的だ
過剰に
わたしのもっとも苦手なタイプの詩だ
(フランス映画に多い。いやイタリア映画にもある)。
タルコフスキーのことば群(神学的な詩)にはしっくり来るのに、何故だろう。
そう映像詩というものとはまた本質的に異なるからだ。
ヌーヴェルヴァーグだ。
ゴダールを引き合いに出すべきだろう。
しかしゴダールはしっくりするし、入眠はまずない。
いや、「汚れた血」も「ポンヌフの恋人」もなかった。
この作品だけだ、、、。
何でこんなに騙らなければならないのか
「恋人を言葉で殺したくない」
「黙れば彼女が自殺する」
詩と謂うより内容的に思索であろうか。
観念論的な思索。
(タルコフスキーとはまた異なる)。
ある意味、それが落ち着かなくさせる。

ミレーユに愛してると言ってみる。
だが同時にフローレンスにもまだ恋しているという。
そうしないと自分の心が開かないとか、、、。
当たり前だが気持ちは常にすれ違い遠ざかって行く。
彼女は恋人をまだ意識している。
だがその恋人とも終わった。
アレックスは走る。
この人はいつも必ず走る。
ミレーユに助けを求められるが、その時は、、、。
何故だかアレックスはふて寝を始めた。
(折角、走って来たのに、、、そういうものか)。
走る姿というか演出は
「汚れた血」~「ポンヌフの恋人」での方が格好良かったが。
やはり夜だ。
レオス・カラックスとくれば「夜」の映画だ。

わたしはヒロインよりも手話の通訳の女性が素敵に思えた。
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