ポリーナ、私を踊る

Polina, danser sa vie
2016年
フランス
バレリー・ミュラー、アンジェラン・プレルジョカージュ監督
バスティアン・ビベス原作
バレリー・ミュラー脚本
アナスティア・シェフツォワ、、、ポリーナ
ニール・シュナイダー、、、アドリアン(ポリーナのダンスパートナー)
ジュリエット・ビノシュ、、、リリア・エルサジ(コンテンポラリーダンスの先生)
ジェレミー・ベランガール、、、カール(最初の彼氏)
アレクセイ・グシュコフ、、、ボジンスキー(ボリショイバレエ監督)
今日は何も頭は使わず、身体で感じる映画を選ぶ。
(日本のアニメはとかく小難しいものが多い。というか少女漫画形式であるところの難解さがある。面白いからいいけど)。
これはバレリーナ~ダンサーを目指して自分~自分の踊りを見出す女の子の噺である。
淡々と彼女の姿をそのまま描写してゆくといった捉え方がよい。
彼女はロシア~南フランス~アントワープと自分のダンスを求めて移動する。
その間にダンサーだけでなく、様々な人々の生活の中の動きを観察して取り込んでゆく。
動きの美学の可能性をゼロから模索してゆくのだ。
(異国でお金が無くなりバーでアルバイトをしながら自分のダンスを極めんとする)。
若いうちにしか出来ない。
大いにやるべき。
ただ、ボリショイの試験に一発合格して、将来を嘱望されながら、あっさりボリショイ・プリマを棒に振るというのも大した度胸。
「他人のフリを真似るのはイヤ!」、、、実力があるから言える言葉ではある。
父親は娘がボリショイのプリマになることだけが夢で、結局娘が道を模索中に亡くなってしまう。
これは、とっても無念であっただろう、、、。凄く共振する部分であった。
「眠れる森の美女」とか「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」など彼女の舞で観てみたいではないか、、、。
ボリショイの試験に受かるなんてコメの粗である。
落ちた人も沢山いるのだし。まずは、踊りで成果のひとつもあげてから、転身しても良かったかもしれない。
自分でもわたしはクラシックに向きだと言っていたのだし、、、つまりは自分を探すのではなく自分の殻を破りたいということなのだ。これまで身体に沁み込んだ型を解体しなければ、必然的に他人の真似に落ち込んでしまうということか。

すぐにコンテンポラリーに行かなくても、モダンバレエではダメなのか?
あのイサドラ・ダンカンに始まる革命的バレエがあるのでは、、、。
アンナ・パヴロワそして重力を超越したニジンスキー、、、。
古典バレエの充分な素養のもとに進むならこれも視野に入れてはどうか。
しかし、人々のたむろするバーやクラブ、街頭などで、今現在の身体性を表現するものはコンテンポラリーダンスとなろう。
いまの自分をその中~関係性において見つめるとしたら極めて自然な成り行きであったか。
彼氏と一緒にコンテンポラリーダンスの「白雪姫」を観た影響も大きいものであったようだ。
(踊っていた女性の方は日本人と見た)。
自分を(そして家族というルーツも)解体することではじめて現存在に同期する踊りが発見できるのかも知れない。
ならば若いエネルギーの迸るうちにやるべきことだろう。

クラシックバレエやその練習風景などに流れる音楽はクラシックな弦楽奏などでよくマッチしていたが、コンテンポラリーダンスの場面などで流れるアシッドなシンセミュージックが余りにチープでつまらないものであった。
この辺の選曲にかけては、デヴィッド・リンチ監督のセンスが凄いのだが(ツイン・ピークスでつくづく思った)。
ヒロインのポリーナ~アナスティア・シェフツォワがちゃんとしたバレエの体つきであり動きも見事であった。
また、全体に渡って随所でしっかりした踊りを魅せていたことは、特筆したい。
この辺、映画によっては、とてもバレエの体格ではないのに何で?というヒロインに出逢ってしまうことがある(笑。
「ブラック・スワン」は例外であり素晴らしかったが、最近の映画でもバレリーナには無理のあるヒロインが散見される。
勿論、動きにおいては専門家が代役をやっており、それが分かってしまうのだ。
(妙なイメージ映像になったり、スローモーションやディテール画像になったりもする)。
ここでは、全てポリーナがしっかり熟していて、とても流れがすっきりしている。
(もしかしてこの人そちらの方のプロなのか?)
そして、あのジュリエット・ビノシュが如何にもという感じの渋~い先生で出演している。
「汚れた血」の頃が懐かしいなど禁句であろうが、やはり想いうかべてしまうところはある。
余りに渋いのだ。
的確なアドバイスの優しく出来るとてもよい先生なのだが。
ちょっと寂しい。

コンテンポラリーダンスの動きがポリーナ含め何人ものダンサーによって見ることが出来たが、どれも独自性がありアイデアがあって、饒舌なのだ。
やはり伝統や集団のものではなく、藝術~概念がはじめにあるのでもなく、今を生きる個人~個性~自分の踊りを追及するもっとも過激な形なのだと認識を新たにした。
最後のダンスで彼女は自分(自分の世界)を見出したのだった。
ある意味、父を失ったことで見えたものがあったのだ。
尊敬するボリショイの常に強面のボジンスキー先生が彼女に微笑む~彼女を認めるイメージを見るところで終わる。
アナスティア・シェフツォワという女優またはバレリーナは今後、どういう方向に進むのかも気になる。

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