魔法少女まどか☆マギカ 劇場版前後編

前編: 始まりの物語と後編:永遠の物語(2012)を観た。
新房昭之(総監督)、宮本幸裕 監督
虚淵玄 脚本
鹿目まどか (悠木碧)
暁美ほむら (斎藤千和)
巴マミ (水橋かおり)
美樹さやか (喜多村英梨)
キュゥべえ (加藤英美里)
佐倉杏子 (野中藍)
志筑仁美 (新谷良子)
鹿目詢子 (後藤邑子)
長女に何かいい映画ない~と聞いたら即、これが良いと言われた。
次女も競うように「進撃の巨人」と言って来たが、TVアニメ版では沢山観なければならない。
これは、ほぼ2時間を二つ観ればよい、、、時間が無い!直ぐ見なければ間に合わない、という事でこっちを観ることにした。
何というボリューム!
少女たちの張り裂けんばかりの苦悩と葛藤その果ての決意を、、、これほど繊細に力強く描いた映画を他に知らない。
魔法少女の間に生じる猜疑、反目、友情の密度も半端なものではない。
明日、新編:叛逆の物語を観る予定であり、その時にまとめたい。
今日は感想をまとめる余裕はどうやら、ない。
キュゥべえ(インキュベーター)の魔法少女になる契約時に「どんな願いも叶える」というのが、何ともよく分からない。
本当に無制限(無際限)にそれが出来るなら、別に地球の少女に頼むまでもないような気がするのだが、、、。
(魔法)少女に頼む必要があるなら契約の際に「宇宙の寿命を延ばして~」と、願いとして言ってもらえばよいのでは。
ダメなのか?
このキュゥべえ、プリキュアに出て来る支援キャラとは似て非なる者である。
魔法少女となると毎晩(夜に限らず)、魔女を探し出してこれを退治しなければならない。
そうしないと、自分の生命力が減退してゆくことになっている。
しかし、魔法少女たちは充分な説明を受けてなっているようではないらしい。
ただ、漠然と魔女~悪から街を救うくらいに考えている者も少なくないようだ。
犯罪や大きな自然災害なども、その姿~実態は普通の人間には見えぬが、魔女の仕業であることが多いという。
(ここは妖怪ウォッチみたいだ)。
第二次性徴の思春期女子のなった魔法少女が、希望から絶望へ相転移し魔女となる際に発生する膨大な感情エネルギーがエントロピーを覆し宇宙の寿命を延ばすエネルギーとなる、という呆気に囚われる途方もない原理である。
そのエネルギーを回収しに来たのがインキュベーターのキュゥべえであるという、、、。
縫ぐるみみたいな恰好をしている、高度な知的生命体が送って来た支援者とでも言うべき物らしい。
このインキュベーターを送り込んで来た異星人には感情はない、という。
では、音楽はないのか、、、。
確かに感情こそがエネルギーを生む。
根幹の部分に拘らなければ、そこから展開して行くストーリー自体のドラマチックな緊張感と迫力で一気に前・後編を観てしまう。
はっきり言って大変重厚なドラマである。
希望と絶望のバランスは差し引きゼロ。
誰かを救った分、恨みと妬みが溜まるというのは、ここで展開される噺を観ると説得力がある。
確かに思春期の少女でないと、強烈なエネルギーは生じそうもない。
おじさんおばさんといった達観した人からでは、何も出まい。
ただ幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、というエネルギー法則は戦争の原理に当てはまる。
ここは、老若男女だれもの問題である。
祈りに見合う呪いを背負い込んで来た有史以前からの歴史を、まどかはキュゥべえから見せられる。
彼女は目を覆うが、その破滅(破壊)運動なしに地球人の進化~文明は生じなかったと、、、。
「ソウルジェム」というガジェットに魂は格納され、体はそれにより痛みを感じず、修復もすぐに出来るという。
これが身体から離れると、もぬけの殻みたいになってしまうところなど、ガジェット系はアイデアも良い。
しかし少女である。そんな自分の体をゾンビのように受け取り取り返しのつかない引け目を感じてしまう。
それが恋愛に絡めばもう絶望を呼ぶだろう。
自分が身を犠牲にして救った相手が自分を捨て自分の大切なものを奪うと同時に、自分も相手に見返りを期待していたことを自覚する、この認識が自らを引き裂き苦しめる。
それが呪いの気持ちとなって募り「ソウルジェム」が黒く濁るとエネルギーを発しながら「グリーフシード」となり魔女に生まれ変わるシステムである。
つまり、インキュベーターによって仕組まれた魔法少女から魔女への変態によるエネルギー回収の流れでもある。
インキュベーターは、説明を求められても、その人間にとって不快な側面のことはいわない。
決して嘘は語らないが、相手が未知のことの為に質問すら思いもよらない件に関しての配慮はまったくない。
ある意味、無知に付け込んで契約を取る口の上手いセールスマン的なところである。
特に、最後は必ず魔法少女は絶望し魔女に変わってインキュベーターの餌食とされる件については何も語らない。
通常ならこれが判明したところでクーリング・オフというところだが、一度魔法少女になってしまっては後戻りできないのだ。
騙しであるが、理解認識上の齟齬と彼らは捉える。狡い。
切迫した質問に対し、そういった条理を覆す前例はまだ見たことありません、などと答える。
まず、不可能だと考えますとは、言わない。ここが大変な結果の差を彼女らに齎す。
こいつら、やはり人類の敵である。
ほむらは、まどかとの出逢いを変え、終わり方を変えるために平行する時間流を何度も乗り換える魔法を使う。
そのたびに途轍もない強敵「ワルプルギスの夜」との闘いに及び、まどかはそのたびに死んでいる。
ほむらはまどかを救いたい一心で何度も未来の時間系から遡行を続けて来た存在であった。
その希望を持つ限り闘い続けるしかなく、絶望した時点で魔女になり、その救済は消え去ることでしか訪れない。
救いのない無限ループにあって闘い続けるほむら。
しかしそれを余りに何度も繰り返した為、まどかを中心軸にして時間を束ねてしまうこととなる。
まどかは所謂、因果の特異点となってしまう。
その為、非常に強力な力をもつ魔法少女の素質を持つに至った。
だがそれは前代未聞の最凶の魔女を生み出すことにもなる。
何度も闘って敗北している「ワルプルギスの夜」を相手に、ほむらがもう後の無い劣勢に追い込まれたときについにまどかは魔法少女になる(実際に魔法少女となるのは最後の最後だ)。
その時の願いが、「過去・現在・未来の魔女を生まれる前に消し去る」というものであった。
その為、まどかはこの次元より一つ上の次元(全ての時間が既にある地平)の存在となり、地上からみれば概念のかたちとなる(謂わば、神と同じ位置付けとなる。「円環の理」と彼女らの間では呼ばれ伝えられる)。
彼女は、魔女となろうとする存在を全て浄化してゆく。
この行為は宇宙の因果律自体を書き換えることにも繋がり、宇宙が再編される。
その結果、命を落とした魔法少女がまどか以外は全て存命で残っているが、まどかその人のことを覚えている人間は、時間を遡行できるほむらだけとなっていた。彼女はまどかから赤いリボンを貰っていた。これによって宇宙全体が変わってしまっても覚えていられるようにと。この辺、「君の名は。」を思い出す、、、。
兎も角、見応え充分すぎる超弩級アニメーション映画であった。
なお、新たに再編された地球においては、魔法少女が魔女となり、その魔女を魔法少女が倒すというサイクルではなく、人々の邪念が生んだ魔獣が至る所に現れそれを魔法少女が倒しその消滅時に発生するエネルギーをインキュベーターが回収する形をとっており、それ以外の方法など誰も知る由もない。
キュゥべえの冷酷無比な目が終始不気味であった。
そして魔女の結界内の平面的装飾性の高いコラージュ空間はまた独特なカラーを持っていた。
そう、アートワークに独自性がある。ちょっと慣れは必要だが。
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