狂った夜

La Notte Brava
1959年
イタリア・フランス
マウロ・ボロニーニ監督
ピエル・パオロ・パゾリーニ脚本・原作
ピエロ・ピッチオーニ音楽
ミレーヌ・ドモンジョ、、、ラウラ(謎の美女)
ローラン・テルズィエフ、、、ルッジェレーロ(ゴロツキ)
アントネラ・ルアルディ、、、スプリツィア(娼婦)
ジャン・クロード・ブリアリ、、、シンティッローネ(ゴロツキ)
ロザンナ・スキャフィーノ、、、ロッサーナ(娼婦)
フランコ・インテルレンギ、、、ベッラ・ベッラ(ゴロツキ)
エルザ・マルティネッリ、、、アンナ(娼婦)
アンナ・マリア・フェルレーロ、、、ニコレッタ(娼婦)
トマス・ミリアン、、、アキッレ(金持ち放蕩息子)
今日でいつの間にか、映画記事が1000記事となった。
その記事が、何とも書きにくい、、、。内容ではなく映画としてあっさりし過ぎていて観終わって何も残っていないのだ。
薄いという印象。
ピエル・パオロ・パゾリーニ脚本のもう刹那的な若者たちの空虚な噺である。
その空気感が出ている映像であったが、今更こういうのを見ても、同じ方向性の強烈なものを幾つも見ている。
音楽がそれにまたよく合っていてその辺は文句はないが、、、。
登場人物もゴロツキと娼婦と大金持ちのボンボンという、構成で無軌道この上ない。
言った先から違うことしていて、もう忘れているらしい。
過去に囚われないとかいう主義の問題ではなく、健忘症の領域だ。
恐らく彼らはほとんど記憶に残らない生を生きているように思うが、それを見ているこちらも記憶に残らぬものを観ている気がする。

線をいちいち拾って収束させる必然性はないし、実際現実はそんな構成にはなり得ない。
無理に物語化する必要はないし、それを拒否していることも分かる。
だが、ルッジェレーロは豪邸で偶然出会ったラウラを見初め、一端は財布を盗んだ悪友たちとトンズラしてしまったが、その金を返しに行ってまた彼女にどうしても会うんだと息巻いて大喧嘩をしたのに、いざその金を取り戻したところで、悪友の彼女がたまたまその場にいたというだけでその彼女と大金を使いまくり夜のうちに蕩尽する。金を持ってラウラのところに駆けつけるのではなかったのか、と肩透かしをくらう。
どうやら目の前の刺激に呼応して動くようなのだ。ラウラがいれば彼女に夢中になるが、アンナがいれば彼女がよいという風らしい。
それをもって刹那的というのかも知れない、、、。
何か触覚で認知して行動する虫みたいだ(虫は見通しは持っているが)。


しかし勿体ない。わたしもラウラ~ミレーヌ・ドモンジョをもう少し観たい。本当に少ししか出ていないのだ。
あのドロンチョ様のモデルとなった人でもある。見たいのが人情ではないか、、、。
だが、ルッジェレーロが戻るのを忘れてしまうから、ミレーヌ・ドモンジョも出番が終わってしまった(残。
こういう空虚感はいただけない(怒。
ラウラが何者なのかもわからず仕舞いであったし、アキッレが放蕩友達を電話で呼び出したのに、どんな連中が来るのかも、何をおっぱじめるのかも知らされず、、、だいたいキャストもいないのだ。
アキッレの豪邸の方での噺が全く膨らまないのには、がっかりした。

で、後半は大金を手にしたルッジェレーロが悪友の彼女アンナと高級クラブと豪勢なレストランでは楽士を借り切って食事とダンスを愉しみ、おまけに結婚まで仄めかすが、彼女に断られる。
そりゃそうだ。盗んだ財布の金は一夜で全て使い果たしたのだから、、、。
早朝、橋の上でタクシーを降り、1万リラ支払ったらもうスッカラカン。
虚しさを絵に描いたような光景ではある。
(だが光景に力が無い。絵の説得力とでも言うべきか)。
雰囲気は全体からそこそこ伝わってくる。
ただ、どうなのかな、、、空間の稠密さ、、、ディテールの描写は弱く感じられる。
然程、物質感が感じられないのだ。
その辺からくるのか、圧倒する空虚感の迫力がない。
何となく観終わり、何も残らない。
貧富の差の激しさはよく分かる。
アキッレなど出会う人間に金を撒いて歩いてる様子であった。
余程、金が有り余っているのだ。
それに引き換え、仕事もせず~職が無く、常に盗んだものを闇で売りさばくか、女であれば娼婦で何とか一日を生き延びるしかない者たち、、、。
ではあるが、、、どうにも薄っぺらく、同調も共感も受ける部分はなかった。
映画としては駄作に入るものだろう。
1000回目の映画がこれでは、、、こちらが虚しい(笑。
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