メアリと魔女の花

Mary and The Witch's Flower
2017年
米林宏昌 監督・脚本
メアリー・スチュアート原作『The Little Broomstick』
声:
杉咲花 、、、メアリ・スミス(11歳、赤毛、青い瞳、そばかす少女)
神木隆之介 、、、ピーター(12歳、赤い館村で新聞配達する少年)
天海祐希 、、、マダム・マンブルチューク(エンドア大学の校長)
小日向文世 、、、ドクター・デイ(エンドア大学の魔法科学者)
満島ひかり 、、、赤毛の魔女(エンドア大学の昔の生徒)
佐藤二朗 、、、フラナガン(エンドア大学にある箒小屋の番人)
遠藤憲一 、、、ゼベディ(赤い館の庭師)
渡辺えり 、、、バンクス(赤い館に勤める家政婦)
大竹しのぶ 、、、シャーロット(赤い館の主人で、メアリの大叔母)
TVで観た。CM入りまくりのカットもある映画であった為、それを差し引いてみる。
カットされてよいはずはない。ほんの僅かな風景の描写であっても重要な役目をもつ。
だが、それでもその映画の良さは分かる範囲で確認~鑑賞は出来ると思う。
米林宏昌監督と言えば、「借りぐらしのアリエッティ」、「思い出のマーニー」であり、両方ともとても好きな作品だ。
それで、観てみた。
何と謂うか、、、前二作は監督が思うように作った、ジブリブランドを意識しない作品ではなかったか、、、
とても繊細で文学的で素敵な世界観に浸れたものだ。
しかし、この作品はどうだ、、、。
今になってジブリ意識し過ぎなのか、どうなのか、この監督ならではの作風というものを感じない。
忌野清志郎ではないが、「♪~どうしたんだ~♪」と聞きたくなる。
作品を製作する環境は、とても重要なものなのだと思う。
彼はスタジオジブリのスタッフに支えられた上で自分の世界を表現することが上手く出来ていたのかも知れない。
新しく立ち上げた「スタジオポノック」というのもジブリで働いていた人が多数を占めるそうだが、やはり違うのだろう。
この過剰にジブリ色の強い演出と軸となる流れは、原子力エネルギーやクローン技術などを象徴しているかに想える、どうしても制御出来ないヒトの文明の方向性に対する危惧であろうか、、、。
しかし、あまりこの監督の持ち出すテーマとは思えないが、、、
もっと私小説的な個としての存在を問うテーマが真骨頂にも思えるのだが。
今回はやたらとキャラが空を飛び回るのだが、空滑りをしているだけの印象である。
しかも「魔女」である。
これはやらない方がよかった。
だって、あの傑作「魔女の宅急便」があるではないか。この時点で圧倒的に分が悪い。
勿論、強力な基本コンセプトが暖められており、独自表現が用意されているのなら、それで行くべきだが。
実際のところ、それ程はっきりしたコンセプトを詰めておらず、表面的な繋ぎ合わせとこれまでの経験で作ってしまった感がある。
自分の作るべきものではない何かを、プロジューサーか誰かに強いられたのか、、、その辺の経緯は知らないし、探る気もない。
やるのは、自分である。

わたしは、魔法大学の校長が水の中から現れた時、思わず「うっへ~」と唸ってしまった。
余りに、これまでのジブリ作品のピースをあからさまに使い過ぎてはいないか。
これをやるには、余程基本構造がしっかりしていないと、ただのつぎはぎになってしまうだろう。
結果的に、なってしまった。

全てのキャラが弱い。
出て来る動物たちも、不自然。
猫は中では、頑張っていた方だが、、、。
ヒロインのキャラに高潔な魅力があまり感じられない。(ジブリにはその魅力がある)。
その為、ストーリーがとても単純で大雑把になってしまった。
共感を覚えるところが少ない。
わたしとしては、メアリが大学に招かれ、校長に褒めちぎられて気をよくしてゆくところなどは、よく分かるし面白かったが。
その程度の少女が一晩ほど魔法が使え、その力で自分のせいで捕らえられている生意気な男の子を助けに行くという、ほとんどどうでもよいような話である。大袈裟な感じで動き回るが登場人物もごく少なく少女を軸にした世界観は小さい。
男の子と一緒に戻ろうという幼い動機のレベルである。
噺全体(校長~魔法科学者)からみても上記の思想的観点があったとしても脚本・演出が粗雑に思える。

「夜間飛行」が7年に一度咲く花と言っていたが、7年後にはまた反復する話なのか、、、もうその花が存在することは知れている。
7年後の想定の続編を今度は満を持して作っても良いかと、、、渾身の力を込めて。
でもこの作品の続編ときたら、見ようとはしないだろうな、、、。
だが、米林宏昌監督の次回作には期待したい。

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