ザ・サークル

The Circle
2018年
アメリカ
ジェームズ・ポンソルト監督・脚本・製作
エマ・ワトソン 、、、メイ・ホランド(サークル社新入社員)
トム・ハンクス 、、、イーモン・ベイリー(サークル社CEO)
ジョン・ボイエガ 、、、タイ・ラフィート(SNS「トゥルー・ユー」製作者)
カレン・ギラン 、、、アニー・アラートン(メイの親友、職場の先輩)
エラー・コルトレーン 、、、マーサー(メイの男友達)
イーモン・ベイリーはわたしの敬愛するスティーブ・ジョブスを模しているが、創造的な狂気が感じられない。
プレゼン能力のあるカリスマ経営者の雰囲気はよく出ている。
ヒロインのメイ・ホランドは優秀でやり手の社員というより知能指数の高い白痴か。
ここで出て来た興味深い方向性は、ワンストップサービスによる行政インフラの拡充と、相互監視システムという形で人の管理を国から民間企業~国民主導へと移行することで徹底した管理体制を完成させようというもの。
行政インフラに関しては利便性はあるが、任意の部分は残しておく必要がある。
後者はつまり一般人が自ら進んでSNS~小型高解像度カメラによって自らを透明化しその全てを衆目に晒し合うことを望む社会の到来ということだ。
しかしこの透明化は原理的に不可能であるだけでなく、それを推し進めることで社会の閉塞化を強める弊害しか生まない。
まず、どれだけその人間に関する情報を収集してもその人間の存在には迫れないばかりかその不透明性は増すだけである。
それが人間という自然の姿だ。
それを強引に単純化・平板化した個として管理しようとすれば、より大きな病と犯罪しか呼ぶまい。
「隠し事は罪だ」などにまともについてゆく者はまずいまいが、まさに発狂している。
目標が「完全化」~全ての人類の”トゥルー・ユー”への加入~完全依存である。
全体主義以外の何ものでもない。情報操作(扇動)など思いのまま出来る環境となる。
ここではインフルエンサー・マーケッティングの担い手となったメイが新新興宗教の教祖みたいだ。
この一見アットホームで自由で親和的な気風に思える環境はとても抑圧的で隷属的で身体を消耗させる。
まず社会がどうあるべきかを考察する前に、人間とは何かの洞察が不可欠である。
「シー・チェンジ」(小型高性能カメラ)は、観光や犯罪・事故対策に最適であろうが慎重な扱いが前提となろう。
身を隠したがっている~これも大切な人権だ~一般人をカメラの群れで追い詰め晒しものにして事故死させるようなケースは必然的に生まれてゆく。
それもCEOをはじめとする社員は、ネットワークシステムの充実で乗り切れると信じている。

だが、当初からこのシステム開発者であるタイ・ラフィートはこのSNSの適用の仕方に疑問と危機感を抱いていた。
メイも友人の死によってこのシステムの見直しを考えていた。(あくまでも見直しである)。
ふたりが共同して調べたのは、透明性を強調するCEOや管理者たちが、データ全てをクラウドにあげ誰もがアクセス可能とする知の完全な平等を詠っていたにも拘らず、重要な(犯罪的)データをサーバーに隠していたことである。
秘密のデータを持つことは、構成員の誰よりも特権的な立場を保持することが出来る。
つまり世界の支配者だ。彼らも単なる野望を持った飛んでもない偽善者に過ぎなかった。
プレゼンでメイはふたりのトップをステージに呼び、彼らの理想とする理念を語ったうえで、その多くの秘匿情報を全社員に見せデータを各自の端末に送ってしまうのだった。
それから彼女は、社はどういう方向性を辿ったのか、、、
そこからの展開は映画では語らず、メイが河で趣味のカヤックに乗っており、その近くをドローンが何台も飛び回っている光景が広がる。(彼女の理念が具体化された「サークル社」が存続・発展している様子が窺える)。
彼女のとても晴れやかな表情でカヤックを漕ぎ進める印象的な姿で終わる。
彼女の基本的な信念はテクノロジーで困難は全て解決出来るというものだ。
人間は透明化出来、平和裡に管理可能であると信じて疑わないヒトなのだ。
もしかしたらメイが一番狂っている、、、。
重要な情報の秘匿などは重大事ではあるが分かり易い欲望でありある意味可愛らしい。
厄介なのは、人というものが透明化できる情報の集合体であるという信仰だ。
ならばテクノロジーによってすべてを明かして共有すれば究極の平等で民主的な共同体が形成できる、、、
という狂気である。