フェリーニのアマルコルド

Amarcord
1973年
イタリア/フランス
フェデリコ・フェリーニ監督・脚本
ニーノ・ロータ音楽
ブルーノ・ザニン 、、、チッタ
プペラ・マッジオ 、、、チッタの母
アルマンド・ブランチャ 、、、チッタの父
マガリ・ノエル 、、、グラディスカ
これは想い出の集積のような映像だ。
綿毛が風に舞って冬の終わりを告げる光景から始まり、再びその光景で閉じる、、、。
ファシスト党の集会の最中に、教会の塔の天辺で蓄音機からインターナショナルの曲を流すなどしても、チッタの父は軽めの拷問を受けて家に帰される。
すぐに元気を回復している。
ファシスト党もどこかのんびりしている。
戦争になろうが、どんな体制が敷かれようが、われわれは自分たちの生活を楽しむという気概が伝わる。

馬車に乗って家族でピクニックしたりして、ムッソリーニが台頭するなかでも、それだからこそ人々は精一杯生活を楽しもうとしていたのだ、、、。
ポプラの綿毛が風に舞いそれを街頭で皆がはしゃぎながら手に掴んで春が来たと喜びを分かち合う。
するとアコーディオンが街に鳴リ響き。
誰に向けてか(映画を観る観客に向けて)美術作品や建築の蘊蓄を語る男。
ただバイクを乗り回す男。
女であることを愉しんでいるような女性。
いい加減な司祭。
悪戯ばかりしているませたガキども(笑。

皆フェリーニの子供のころからの記憶の断片でもあろうか、、、。きっとそうだ。
色々な先生のそれぞれアクの強いこと。生徒のしょうもない悪戯。
とても綺麗で可愛らしい女子がいるのに、その子に皆の気持ちが集中するわけではなく、年上の大人の女性に彼らは憧れる。
まあ、先生に初恋を抱く年頃でもあるが、、、。この子たちは寧ろ大きな胸とお尻に過剰に拘る即物派であるか。
面白かったのは、チッタの叔父さんである。
精神病院に入院しているが、良くなってきたというところで彼を誘い家族全員で馬車で出かけるが、その先で叔父は大きな木に登ってしまい、いつまでも降りてこない。しかも大声で「女が抱きたい~」と叫ぶのだ(困。
幸いピクニックで町はずれに来ていたため近所に聞かれることはないにしても、家族としては大変気をもむ事態となりピクニックどころではない。
梯子を掛けて降ろそうとするも、ポケットに入れた石のつぶてを頭に投げつけられる。
笑える。が、家族にとっては想定外の災難に違いない。しかし彼らは終始そんな叔父に優しい。とても優しいのだ。
こうしたご時世に。いやそうだからこそなのだ。何故ならムソリーニもヒトラーもスターリンもそういう人を徹底して排除する体制を理想の世界として構築しようとしていたのだから。
結局、先生に車で迎えに来てもらうが、叔父は看護婦さんの言う事にはニコニコしながら従い、降りて来る。そんなものだ。
もうひとつ強く印象に残ったのは、街の人々が夜、わざわざボートに乗って集まり、近くを運行するアメリカの超豪華客船を見に行くところである。それを見て皆が歓声を上げ手を振り涙を流すのが何とも言えないところであった。
アメリカ(文化~自由の国)への憧れなのだろうか。
やはり体制による日々の抑圧と鬱積するものをやがていつか解放してくれる巨大な象徴にも窺える。

こんな風に、色々と困ったり喧嘩をしたり子供を叱りつけたりその家の特殊事情の悩みがあったりの普通の家庭生活がちゃんとなされているのだ。
市井のひとたちの力強い日常の日々がとても豊かに描かれている。
かなり厳しい情勢となっていることは確かであり、こんな時に浮かれていられる訳ではないが、絶対に体制に圧し潰されない。
幼い時からの記憶であれば美しく染め上げられている部分も少なくはないはずだが、良い物語に編集されていると思う。
雪の降った冬の広場に舞い降り羽を広げた孔雀。
これはきっと忘れられない記憶なのではないか。
(わたしも恐らくこれに似た少年時代の想いはある)。
そして、最後の海辺である。
街一番の美女グラディスカの結婚を祝う引いたカメラでの情景がこちらの無意識的な記憶にも浸食してくるのだ。
何ともノスタルジックな感情が自然に込み上げて来た。
きっと盲目のアコーディオン弾きがここでも演奏していることは大きい。
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