ストレンジャー・イン・パラダイス

Stranger Than Paradise
1984年
アメリカ、西ドイツ
ジム・ジャームッシュ監督・脚本
ジョン・ルーリー音楽
ジョン・ルーリー 、、、ウィリー(ベラ・モルナー)
エスター・バリント 、、、エヴァ
リチャード・エドソン 、、、エディ
セシリア・スターク 、、、エヴァの叔母
ジム・ジャームッシュお得意のキャスティングである。
主人公や主要キャストにミュージシャンを選ぶ。
長編一作目の本作では、ウィリーにジョン・ルーリー。相棒エディのリチャード・エドソンはソニック・ユースのドラマーである。
ふたりのミュージックスタイルはかなり異なるが。
ブダペストから来た従妹のエヴァがクリーブランドに向かう途中でウィリーのアパートに転がり込んで来るところから始まり、エヴァを軸に淡々と無機質に展開する。
基本的に何が起きるでもない。
賭けで小銭を儲けてブラブラ生活している様子が垣間見られる。
各シーンは短く、物語性が膨らむ前に周到に摘み取る様に途切れる。(ワンカットワンシーン)。
ギャンブラーとして生計を立てているウィリーがしきりにハンガリー人であることを隠す。
従妹のエヴァを10日ばかり預かってくれと電話をよこす叔母にハンガリー語でなく英語で話せと訴え、自分は生まれも育ちもアメリカ人であると暗に顕示しようとするかのようだ。
エヴァを訪ねて叔母のところに行ったとき、本名のベラというのを相棒に聴きとられただけで怒っている。
そしてウィリーはラジオにかかるジョン・ルーリーの曲を「最低だ」と言って嫌うのが面白い。
他のふたりは大好きだというのに。
競馬で「トウキョウストーリー」が強いとか、小津ファンであることを仄めかすところもある(監督が)。
噺は三つの舞台に分かれる。
The New World

ニューヨークである。
ギャンブラーとして生計を立てて生きる我が街である。
簡素な街のこれまた簡素なアパートの一室。
これがアメリカ人の食事だといって食べるアルミの皿のセットメニューも実に簡素なものである。
皿を洗う必要がないんだ、と威張っているがエヴァにとっては、それって食べ物?という感じである。
アメフトをTVで観ながら解説するが、エヴァはちっとも興味が沸かず、バカみたいとあっさり退ける。遠慮はない。
そのくせ、この部屋汚れているわと、掃除機をかけたりする。ちょっとこの辺、秋葉のツンデレっぽいか?
相棒のエディもやって来て彼女と顔見知りとなる。確かに素っ気ないコケティッシュな魅力であろう。
クリーブランドに発つときにウィリーは彼女にワンピースをプレゼントする。
「わたしこういうの着ないの。」「ここはアメリカだ。」ウィリーを支えるアメリカ観とは如何なるものか興味深い。
(少なくともアメリカンドリームを当てにしてアメリカにやって来る上昇志向は微塵も見られない。しかし誰よりもアメリカ人でありたいという意識は窺える。では彼のアメリカ人とはどのような像なのか。別のアメリカンイメージがあるのだ)。
夜、外でエヴァはそのダサい服を脱いでゴミ箱に捨てる。
エディはそれを目撃するがウィリーには言わない。
One Year Later

クリーブランドである。
如何様ポーカーでひと稼ぎした勢いで、クリーブランドにエディの借りた車で行くことにする。
「エヴァに逢いに行こうぜ。」この辺、極めて身軽な連中なのだ。
しかし二人にとってエヴァは何であるのか?
エディは赤の他人であるしウィリーも日本であれば4親等であることから彼女にする資格は法的にもある。
特に何も考えずただ逢ってみたいだけでもない執着心は感じるが、どれだけ意識しているかは分からない。
エヴァはクリーブランドのマクドナルドで働き映画を一緒に観る彼氏も出来ている。
彼氏とエヴァの間にエディが座るという4人構成でカンフー映画を観たりして、、、。
だが、そこは寒い。退屈。叔母とカードをしては負けるだけの日々に彼らはもたない。
それにエディの言うように、どこもみな同じなのだ。
全くその通りだ。
エディにブダペストもこうなのかい?と聞かれまたもウィリーは怒る。(エディはほとんど何も考えない男だ)。
600ドル持っている心の余裕からか、ふたりはエヴァを誘ってフロリダに行くことに決める。
エヴァも仕事と彼氏がいるのに、二つ返事でフロリダ行きに乗ってしまう。
叔母の反対を押し切って雪の中を車で乗り出す。
Paradise

フロリダである。
最初のうちは観光客気取りで良い調子であったが、、、。

二人部屋の安モーテルに三人で泊まり、節約して遊びまくるのかと思えば、彼女を部屋に残して出掛けたドッグレースで有り金のほとんどをすってしまう。そしてかなり険悪な事態になる。
一体何をしに来たのか、、、。そんなこと彼らは端から考えてもいない。
どこもみな同じなのではなかったのか?
それでまた、エヴァを独り残して今度は競馬に出掛けてしまう。
つまりウィリーの関心事は何処にいようが、賭け事以外にないことが分かる。観光を愉しむという世界などない。
ここに彼のアメリカ人としての非常に覚束ない(ギャンブルで繋がるレベルの)アイデンティティが窺える。
(母国ではどうだったのだろう?アメリカに来てこうなったのであれば、母国語の抑圧・否定が作用している部分は大きいと考えられる)。
そしてどうやらウィリーは賭けの際、女は絶対連れてゆかない(同席させない)という固い信念(ジンクス)を持っていることも分かる。
エディがいくら可哀そうだし連れて行こうよと懇願しても聞かない。
何も考えていないのが幸いしてか、外を散歩中だったエヴァは麻薬の売人と間違えられて大金を手にする。
競馬で稼いだ二人が小銭を手にしてモーテルに戻ると彼女はすでにいない。
空港に行くという置手紙とかなりの大金が添えてあった。
ふたりは金を持って、彼女を連れ戻そうとすぐに空港に駆け付ける。

この映画全般のリアルな雰囲気はとても良い。
ユーモアとペーソスに充ちている。
特に最後のシーンはブラックユーモアと謂ってよい。
結局、ウィリーは彼女を探して飛行機に乗ったまま何とブダペストへ直行して行く(爆。
その日に発つ飛行機はブダペスト行きしかなかったのだ。
その飛んでゆく飛行機を呆れ顔で眺めつつエディはニューヨークに還るしかなかろう。
彼女は、ブダペストへ帰っても意味はないし、独り引き払われたモーテルに戻って来る。
(自分の書いた手紙から二人はすでにいないことは分かっていても何とも虚しい)。
三人バラバラになってしまうが、最初からバラバラであった。
誰もがストレンジャーなのだ。アメリカは元々そういう国である。
そして何処に行っても同じなのだ。
「ダウン・バイ・ロー」とともにお気に入り映画のひとつである。
- 関連記事
-
- マッドボンバー
- GODZILLA 怪獣惑星
- ストレンジャー・イン・パラダイス
- 白い家の少女
- かくも長き不在