白い家の少女

The Little Girl Who Lives Down the Lane
1976年
アメリカ
ニコラス・ジェスネール監督
レアード・コーニッグ原作・脚本
ジョディ・フォスター、、、リン・ジェイコブス (13歳の少女)
マーティン・シーン、、、フランク・ハレット (夫人の息子)
アレクシス・スミス、、、ハレット夫人 (家主)
スコット・ジャコビー、、、マリオ・ポデスタ (片足の不自由な彼氏)
モルト・シューマン、、、ロン・ミリオリティ (警官)
ニューイングランドのウエルズ・ハーパーという物哀しい街が舞台。
街にも出るがほとんど少女リン・ジェイコブス宅でのやりとりである。

リンは、ハロウィンがバースデイなのだ。
ハロウィンがバースデイだなんて。
白い家に独り淋しく強く生きている。
その白い家に独り住むことを宿命付けられているとも謂えるか。
13歳の娘が独りとなると周りも煩い為、父が書斎に閉じ籠って仕事をしている偽装を凝らしている。
リンは父の思想に共鳴し彼の遺志を継いでいる。高い知性と鋭い感受性をもつが社会の枠に嵌められることを殊更嫌う。
父と同じ感性なのだろうが、外に交わることの不安や恐怖も感じられる個性だ。
金は潤沢にあるようだ(家は向こう三年分の賃貸料を前払いしている)。

父が詩人というのに一度も出て来ない。
死期を悟り海で自殺してしまっているからいないのだが、回想にも出て来ない。
母は父から渡された青酸カリ入り紅茶で死んでもらっている。
母は父も彼女も大嫌いな人物であったらしい。
だからか母も回想には出て来ない。
(この映画はよくある現在の時間流に過去の時間流が混入するようなタイプのものではなく時間は線状的に流れる。と謂うより内面描写そのものがない)。
部屋のなかに流れる時間で演じられる物語だ。
兎も角、不快極まりないのはハレット母子である。
自分が家主である事をよいことに、他人の家(契約上)にズカズカ入り、やりたい放題の無礼を働き捨て台詞を吐いて立ち去る。
こんな奴らばかりなら、閉じ籠るのも仕方ない。
自分にとって不要なものを遮断して行く生き方は今のわたしと同じでもあり共感出来るが、マリオのアドバイス通り学校くらいは行っておいた方が良いと思う。
この状況は、切断以前に関係性の網が余りにも貧弱すぎる。
ほとんど孤立状態に、ウザいフランクやその母のハレット夫人のような輩のみがズカズカ入り込んで来るだけだ。
警官は職務上仕方ないところはあるが。
まともな友がマリオ一人というのは大変キビシイ。
いくらしっかりしていても人の助けは何かと必要となるものだ。
「gifted/ギフテッド」のメアリーと同じように知力と超脱した感性と認識によって同世代の枠に馴染めないのは分かるが。
もう少し関係の網を広く伸ばしてから不要なものを切断して行けばよいのでは。
所謂、普通の他者との交わりである。

マーティン・シーン演じる粘着気質の嫌な男ぶりは徹底しており悪魔としか言えないものであった。
(最後はまさに悪魔そのものであったが)。
この男との攻防戦が軸とも取れるが、最後のリンの紅茶の巧妙なシーンにはドキドキした。
しかし予め毒入り紅茶を自分が飲むようにセットして置き、相手の猜疑心を刺激してその紅茶の方に手を伸ばすように誘導する等、百戦錬磨のスパイみたいではないか。
13歳の女の子のすることか?
ジョディ・フォスターなら出来る(笑。
地下室から屍を二体引き釣り出して、庭に埋めるが警察犬などに匂いを嗅がれたらアウトのように思うが。
更に最後はもう一体増える。
死体処理どうするんだろうとこちらも心配になる映画であった。
「グッドフェローズ」でプロのギャングでさえ死体の処理には困っていたものだ。
相棒のマリオは、雨の日の墓場堀りで肺炎を抉らせ入院中である。
綺麗だねと自分の髪をさすりながら息絶えてゆくフランクを冷たく突き放した瞳で眺め続けるリンのアップでエンドロールである。
魔性すら窺わせるところだ。
ある意味、ジョディの少女期のPVとも受け取れるフィルムでもあろう。
確かに恐ろしい新人女優の登場である。

「羊たちの沈黙」や「コンタクト」が余りに素晴らしく、そちらのジョディ・フォスターにばかり注目してきたが、この時期の彼女も魅せる。
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