終わりのあるドラマ

やはりWebから暫く出るか。
WWWとは謂っても、自分の世界なのだ。
Googleの取り仕切る自分の世界に他ならない。
Amazonがお薦めする自分の世界の範疇に過ぎない。
endlessに自意識を強化する世界がどこまでも広がる。
基本、全てが自分の世界の延長でしかないことからくる。
他者は何処にもいない。いないから他者なのか。
何と謂うか、本であれば、、、最近カズオイシグロの小説を読んで思ったが、、、一冊読めばずっしりしたものが得られて一区切りがつく。
その後、暫くは心の中で反芻して余韻を味わう日々が続く。
充分に「終了」後の成就感に浸れる。
その作家の他の本に興味が沸けば、また数日間濃密な(贅沢な)時間を過ごせもしよう。
とは言え、作家の本全て読まなければならないという強迫観念に囚われることはない。
一冊、重い本を読み終えれば、充分満足して安らかな心境が得られるものだ。
ウェブ上では、どうやらそうはいかない。
一度、観始めると、、、情報を収集し始めると、、、
いつまでも続く情報の更新に付き合うことに(多くの場合)なり兼ねない。
自分の方も情報を途切れさせることは不安になって来る。
それは性質上いや構造上、もとより終了に向けた物語の外にあるからだ。
物語~ドラマでさえもない。
そして、、、
きりのない記号論的フェティシズムの疼く欲望世界に惹き込まれてしまう(場合もある)。
画像、音楽などその要素~誘惑は強い。
基本的に、毎日情報更新~というよりも付加してゆくことから、日毎に追ってゆかなければならない。
そして書き手~作者も、それはもう強迫的に更新してゆく。
その際限の無さに眩暈を覚える。
いや鈍痛として身体を重く拘束し始める。
わたしは昔から収集癖もあることから尚更困る(笑。
このエンドレスに広がる閉じた鏡面世界。
恐らくウェブ上では基本的に全てがこの構造となっている。
パッケージ概念がない。
ただ連打されてゆく。
そう”ささやき”が流行り出して更に加速し構造が強固になってきている。
勿論わたしもそのなかに混ざって動いてしまっている。
つまり日常を縛られ縛るシステムの内にいる。
解放されたいが為、やり始めたことなのに、その形式が逆の作用を及ぼしている。
やはり実際の本屋に足を運ぶことは、「違う本」に偶然出合う為なのだ。
そして違うドラマに突然出逢い自分自身を更新する為なのだ。
GoogleやAmazonはわたしを解体・更新してくれる為の「おすすめ」はしない。
統計的に「その線」を出してくれるだけだ。
そして何より、継続する一連の流れの(休止~中断ではなく)終了がない。
ドラマチックなエンディングがない。
乗り換えが無い。
だからいつまでも似たような現実が永遠に続く。
エンディングと他者のない世界は自意識にやがて圧し潰されるしかない。
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