マザー!断片補遺

Mother!
2017年
アメリカ
ダーレン・アロノフスキー監督
ジェニファー・ローレンス、、、妻(マザー)。
ハビエル・バルデム、、、夫(詩人)
エド・ハリス、、、客(医者)
ミシェル・ファイファー、、、客の妻
これがメッセージ映画であるならば、、、。
一言、昨日の映画に言い添えておかないといけない気もしている、、、。
監督とマザー役の女優ジェニファー・ローレンスの言により、あの執拗に続く客人たちの傍若無人極まり無い行為は、地球を荒らす人類の行為の象徴と受け取ることが出来る。
地球〜マザーが優しく促しても彼らは全くそれを聞き入れる耳を持たない。
確かに環境は様々な兆候を示すが、自分たちの目先の目的や利益に気を取られたままである。
しかし、この後に繰り広げられる殺意をも催す姿〜行為だけに人間というものを収斂してしまうのはどうであろうか。
これ程までに人は無意識的な機械であろうか。
(勿論、これまでにガイアという認識のもと、地球を文字通り一個の生命体として考え、その健康を気遣ってきた人々も少なくはないのだが)。
この極端な単純化、一元化、、、お陰で見ている間中、イライラ度が極限であり、わたしの体調が悪かったせいもあろうが、耐え難い時間を過ごす羽目となった。
つまり人類をどのレベルで捉えるか、である。
あの詩人の家を訪ねる彼のファン達が人類一般の象徴として。
(救いを求める民の象徴であろうが)。
だが物語の文脈上、あの様な無礼な振る舞いは特別な理由、企みがない限り起こり得ない。
出て来る全てが人格破綻者ではあるまい。
テロであろうと、やはりここの展開に無理がある。
気分が悪く、白けてくるだけ。
静かな環境に、壊滅的混乱が極自然に発生していくのだ。
エントロピー増大を加速させるかのように。
地球環境の変化はそこにとても長い時間が畳み込まれた結果である。
それをあの屋敷の中に極度に濃縮圧縮して見せたのだ。
超微速度撮影を観る気分でもあった。
人間的にどうであるにせよ、構造的にあの様な愚劣な行為を無意識のうちに平然と人類は環境に対して行ってしまっているという事なのだ。
そうなるともう業ではないか。
人間であるが故の罪なのだ。
そう言っている。
あの様な反吐の出る荒唐無稽で残忍な暴挙を延々と見せる事自体がメッセージなのだろう。
そしてそれは永劫回帰する。
だが果たして、敢えて観る必要があるかどうか。
これをメッセージとして受け取り、何らかの行動に移そうと考える人がいるだろうか?