フローズン・タイム

Cashback
2006年
イギリス
ショーン・エリス監督・脚本・製作
ガイ・ファーレイ音楽
アンガス・ハドソン撮影
ショーン・ビガースタッフ 、、、ベン
エミリア・フォックス 、、、シャロン
ショーン・エヴァンス 、、、ショーン
ミシェル・ライアン 、、、スージー
不眠症が慢性的に続くと、幻覚を見る(場合があるらしい(笑)。
その幻覚は自分の周囲の「時」が止まったように感じられるという、、、。
時が止まればとても便利だろう、と想えるが巻き戻せるわけではない。
単に一旦止めるだけでは何ら事態を変えることなど出来ないことが分かる。
特にメリットはないのだ。
相手~対象の思考や認識、記憶にどうこう働きかけられる訳ではない。
ただ、画家の卵である主人公にとって、対象をじっくり眺めて描く時間はたっぷりとれる。
(見方を変えれば異様に加速した彼の意識~認識作用がそう知覚させたのかも知れない。あるいは単なる病的幻覚か)。
後は止まっている店長を台車に乗せてそのまま他の場所に運ぶなどというコミカルな場面はあったが、、、
ここでは止まっている対象に対し物質的に働きかけられる、という事情を示す。
止まっている女性にも働きかけをしてヌードを描いている場面もある。
そうなると単なる幻覚とは片付けられない個人の内面的な世界に留まらない噺となろうか。
何とも奇妙な居心地の悪い事態ではある。(時間の)止まった対象を自在に動かせるというのは、論理矛盾である。
時間を止める系の映画に(別に深く考える類のものではないのだが)自分だけが自在に動けるというものが多い。
時間が停止したと認識する主体があるから事態がそれと分かるのだが、このとき自分とはどこまで自分で周囲とはどこまでを指して周囲ー環界とみなすのかである。その問題は不可避的に発生する。
然も本質的に時空連続体としてわれわれ~世界が存在する以上、その織物に対し別の超越的な自分独自の時空間という系をどう絡めるのか。その別の時空系が他の系に作用を及ぼすとなれば如何なる事情~メカニズムによるものか。
単に自分の時間意識が狂って加速し、周囲が遅延して見えるということか。
(そのような病状は知らぬが、極限状態~アルタード・ステイツにおいて、一瞬のうちにこれまでの人生を俯瞰・圧縮してしまう等という事例報告は少なくない。)
時間意識~認識が狂うことは精神の変調(変性)によって起こる可能性はあるかも知れない。
しかし物質的に相手に働きかけられるとなると、もはや「時間」ではなく、生命活動の一時凍結により事態を動かす等といった次元に及ぶか。働きかけたという幻想に留まらない客観性がみられる場合(つまり店長の例、、、しかしこれも微妙であり、運んだ結果が背後の音で確認されただけである為、本人の幻想~幻聴にも受け取れる)。
確かに、モデルをヌードにして描いたとしても、それは想像で描いたものに過ぎないと受け取れる(その可能性の方が高い)。
美大生であれば、体格を服の上から見るだけで、ヌードデッサンを通して習得した骨格・筋肉の付き方は再現できる。

しょうもない横道に逸れてしまった(笑。
「時間」に足を取られてはいけない。
この映画は端から時間など、大した要素ではないのだ。
ちょっとしたファンタジックな演出のひとつ、主人公の感性の一面くらいのものである。
出て来るキャストも皆、調子外れの連中揃いだ。
独自の世界を生きている。

兎も角、主人公は不眠症の芸術家なのだ。
何があろうがそれ程、おかしくない、というノリでのラブファンタジーである。
ユーモアとウェットがあり、流れの緩急と全体的なテンポが小気味よい。
主人公が妙に真面目なのも笑える。
そう、この映画は独特の(外れた)調子をもった神秘的な静謐さも漂う、ラブコメディなのだ。
映像も音楽センスもかなり良い。
不思議の国のアリスの伝統を背景にもつイギリス映画である。
最後に新しく出逢った女性とキスをする~恋が実ったことで、しっかり熟睡できたというのは、とても分かるところだ。
良いことがあると、まさに芋づる式で、画廊のオーナーに認められ個展が開かれ大盛況、そこで出逢った大物パトロンにニューヨークでの個展の誘いも受ける。
そういうものなのかも知れない。
これはリアルな現実なのだと思う。
(もう時間が止まる必要もあるまい。その意識から解放されたのだ)。
なんせ、良く眠った後なのだから(爆。
ただ一言、相手役女性が今一つな感じが否めなかったのだが、、、。
ミア・ワシコウスカあたりがやったら申し分ないのだが、、、そんな気が観ているうちにして来た(あまり良い観客ではない(爆)。
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