乳搾り

次女がここ最近は、単独行動をとっている。
今日は名前を知らぬ隣のクラス(顔見知りというだけ)の子と待ち合わせて、日中遊んでいた。
(先日、友達5人くらいで遊んでいた時、その子が途中から入って来て一緒に遊ぶうちに意気投合したのだという)。
しかし名前やお家はどのへんなの、とか聞かないものか?
相手の名前を知らぬまま、丸一日遊んでいたのだ。
「ねえ」とかお互いに呼び合って遊んでいて何の不都合もなかったらしい。
とても楽しかったと、、、。
まだ、言語(少なくとも文字言語)が生まれる前の人同士の原初的出逢い~交流みたいだ。
ちょっとその関係性に新鮮味を覚える。
名もない女の子同士の邂逅なんて日常の文脈から遊離していて、まさにうちの娘たちが歓んで見ているオカルト映画や漫画の世界の次元を匂わせる。
きっとその方がワクワクするのだ。
そう黄昏時の出逢いにも似た、、、。或いはハレ。
かえって名前や素性など知らぬ方が神秘的で神話的な活き活きした触れ合いが生じるのでは。
名前と家の場所を知ったとしてそれで何が分かるというものではないうえに、端から平板な文脈のなかでのありふれた付き合いになってしまうことだろう。
同一性による疎外。日常化。
名前が無ければ瑞々しい場所が生じる、、、。
そんな経験はわたしにもあった。
だいぶ以前、部屋に題名の思い出せない音楽が鳴り響いて慄然としたことがある。
聴き馴染んでいたはずの楽曲なのだが、、、いまや全く異なる様相を呈していた。
日常の文脈を喰い破って、崇高で霊妙な音が眼前を五色に煌めく大河となって重厚に流れているのだ。
何とか持ちこたえられるギリギリまで耐えたが、題名を(必死に)思い出したところで、全く普通の音と環境に戻ってしまっていた。
ほんの一瞬のことである。
物凄い快感(認識)なのだが自己保全の危機感(死の恐怖)との同時体験であった。
その時のことをまた思い出してしまった。(まだ幽かに色彩が記憶に残っている)。
何故そんなことが起きたのかは分からない。何らかの身体制御(防衛)機構が一瞬外れたのだと思うのだが。
言語(体制)の取り込みによる転倒(倒錯)が起きる以前の精神状態にふいに立ち戻ることが出来たらきっと異質な、場合によってはアルタードステイツとも謂えるめくるめく体験もできるはず。
われわれ日本人が3つの文字体系を所有している特殊性は様々な局面で露呈している。
外から来たものを際限なく受け容れ、カタカナで表記し、漢字の訓読みによって、その文化体系の去勢~内面化から逃れると同時にデータベース化して所有し、いつでも自在に使用出来る言語~文字システムというのは他にない。
これは驚異的なシステムに違いない。
われわれは主体化(同一性の維持~内面化)する必要がなかったのだ。
こんなことを書く場ではなかった、、、。
これについてはまた後日。
変なことを思い出したせいだ。
次女が遊びに行っている間に長女といつもの公園に遊びに行き、はじめて牛の乳搾り体験をした。
ガールスカウトによる説明が長いのがちょっと鬱陶しかったが、とても大きな牛の乳搾り。
(尻尾が意外と長い事に驚いた)。
草を食みながらの乳の出はとても良かった。
長女にとって、生暖かく特殊な感触が新鮮な体験になったようだ。
一緒にいつも通り「木漏れ日の道」を歩き、熱帯植物園で日向ぼっこして、ポニーに乗り、モルモットを抱っこして、山羊と羊にニンジンを食べさせ、広場で鬼ごっこした後、アスレチックに行こうとしたら生憎の前日の雨で遊具が濡れている為、入場出来なかった。
この次は親子乗馬をする約束をして帰ることにした。
丁度、車が家に着いたところに、次女と郵便物が同時に到着した。
笑ってしまった。
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