セールスマン

FORUSHANDE/THE SALESMAN
2016年
イラン・フランス合作
アスガー・ファルハディ 監督・脚本
シャハブ・ホセイニ、、、エマッド・エテサミ(国語教師、劇団員)
タラネ・アリシュスティ、、、ラナ・エテサミ(劇団員、エマッドの妻)
ババク・カリミ、、、ババク(エテサミ夫妻の友人、劇団員)
ファリド・サッジャディホセイニ、、、男(ラナを襲ったとされる)
ミナ・サダティ、、、サナム
如何にも市井の人々の日常感覚を描写しているというディテールと空気感のある稠密な映像であった。
しかし、全く読めないアラビア語や都市計画はどうなっているのかと思わせる唐突な人の住むマンション隣での倒壊工事などは新鮮な出だしでのっけから期待値を上げてくれる。
日常の中の非日常から始まるがこれが鍵でもある。
そして久々に重厚な(重層的な)リアリティ溢れる「映画」を観たという感覚に浸った。
タラネ・アリドゥスティは、ドナルド・トランプが発令したイスラム国家7ヵ国入国制限に抗議し、アカデミー賞授賞式へのボイコットを(トランプ流に)Twitterで表明した女優だ。なかなかやるなと思ったものだ。
映画でも意思は強いが深い思いを抱いた女性を好演している。
シャハブ・ホセイニは、その立場となった夫の生き様を少し武骨だが迫真の演技で描く。
「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)の劇中劇(その練習風景と舞台裏も含み)と実際の彼らの生活がパラレルに展開する上手く計算された脚本だ。
主人公の夫妻は、劇団員でその舞台劇の主要演者であるとともに、夫は高校の国語教師であり、妻は劇団看板女優を務める。
相互浸透しながらに進むどちらの空間もお互いの感情・意思のズレてゆく様を微細に描き進み、その先に救いはない。
イランの人々の生活や老若男女の姿がわれわれとほとんど同じであることに少し拍子抜けはした。
舞台の都市が、テヘランであるからか。
もっと伝統的な習慣・因習など描かれてもよいと感じた。特に宗教的な、、、。
若者たちなど、アメリカや日本などよりは幾分か純朴で素直な気はしたが。
事件は本当に何気ない無意識的な行為~生活の隙に唐突に発生する非日常性とも謂える。
だから事件なのだが(トートロジックであるか、しかしつくづく)そういうものだと思う。
彼らが新たに借りたアパートの前の住人が娼婦であったことが、事件を呼び込むきっかけとなった。
二人は前の住人のことなど何も知らされていない。
夫の留守中に妻が浴室で何者かに襲われ重傷を受ける。幸い命には別状なくすぐに退院はした。
妻はドアベルを夫と勘違いして相手を確認せずに何気なく開けてしまったのだ。
そして、その時を境に、二人の日頃の些細なズレが大きな裂け目となり、その溝は拡がり深まってゆく。
平穏無事な時には露呈しないズレの連動が悲惨な場を(不可避的に)引き寄せてしまう。
妻にとっては、それはあくまでも精神的な傷であり、周囲には知られたくない(警察沙汰にはしたくない)事件であり、ひたすらその傷の癒しを求めようとする。
夫にとっては、あまりに不透明な(不信な)犯行と犯人への憎しみ(さらに自身のプライド)からも、真相を暴き白黒つけることに拘り続ける。
(近所の人間が倒れていた妻を発見したことから、すでに噂話は世間では勝手に広がっていてそれにも苛立つ)。
どちらもその立場から、理解できる心情だ。
かえって分かり過ぎる点が、こうした問題の普遍性を思い知るところか。
少なくとも現代の都市社会において、何処の国でもいつでも起こり得る光景なのだ。
ただ、「事件」が(恐らく些細な出来事であったとしても)起きることで、尋常でない後戻りの効かない事態に行き着く可能性が誰の身にも待ち受けていることの恐ろしさをここに実感する。
主人公の夫は、自らの手で手がかりを頼りに犯人を探り出す。
そして厳しく問い詰め、罪を贖いさせようとするのだが、、、。
善と悪~罪と罰、などでスッキリ仕切れるほど、世界は単純で浅はかなものではなかった。
(これは警察沙汰にしても変わらない事だ)。
妻と夫のその犯人に対する意志・心情は最後には大きく割れてしまった。
呼び出した病弱な初老の男をもう許し家に戻そうとする妻に対し夫は断固として決着を付けようとする。
その男は前の住人の家だと勘違いし浴室に入ってしまったことは確かなようであったが、そこで何があったかは未だに判然とはしない。何があったか、実際のことは有耶無耶なままなのだ。妻も口を固く閉ざす。夫の苛立ちはそこからも来ている。妻はその事件そのものをなかったことにしたいのだ。そして事件そのものがあったのかどうか、、、。男はどの時点でどれだけの金を置いていったのか、若しくは金など置かなかったのか、、、。夫の考える事件そのものの輪郭があやふやに崩れそうになって行き、夫は更に激高する。
ともかく、何かが起きたことだけは確かなのだ。
だが、それが何であったのか?
何であったのか?
男も何があったのか、誤魔化しではなく、次第にはっきりしなくなってゆく、、、。
(多くの波打つ関係の総体として今‐現存在がある)。
だがそれに(自分の納得出来る内容~因果で)形をはっきりともたせたい夫がいる。
犯人は娘の婚姻を間近に控えた身であったが、夫にとってはもうすでにいい加減な手打ちでは済まなくなっており、引っ込みもつかない。
彼は男の家族全員に今回のことを全て知らせると告げる。夫の考える物語を。
その直後から男の病状(持病)がストレスによって悪化する。
娘と婿、そしてやはり心臓の悪い老いた妻も駆け付け救急車を呼ぶが、階段に倒れたその男の意識は戻らない。
その「事件」そのものを宙吊りにする事態に及んで、夫も妻の気持ちに最終的に沿う形で決着~妥協を図るも、悲惨な結末に物語は収束する。
彼ら夫婦がその後の日常において、お互いの間に生まれた距離を埋めることが出来るのかは、舞台の支度中の彼らのエンディングにとる顔~表情から察しが付く。
ではどうすればよかったのか、、、答えなど、あろうはずもない。

わたしがSFやタルコフスキーの映画を観るときに似た知的刺激を受ける作品であった。
この監督の他のものも観てみたい。
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