聲の形

2016年
監督 山田尚子
脚本 吉田玲子
原作 大今良時
基本的に観たまんまのアニメーション映画である。
随分、遅い時間に観始めてしまった為、要点のみ書くつもり。
終盤、かなり端折った展開でちょっと説明(尺)不足な感じは強いが(恐らく原作を見ているアニメファンからは文句も出ているのでは?わたしは知らぬが)共感できる作品ではあった。
音声によるコミュニケーションは、非常にベーシックなものだが、勿論不全なものである。
これは仕方ない。
制度的に表象と対応関係が結ばれているとはいえ、それは多義的であらざるを得ない。
サインではなくコミュニケーションなのだ。
関係とはそういうもの。
個別性(歴史)と内面を持つ社会的動物でもある人にとって不可避的にコミュニケーションはズレである。
その差異そのものが、個~他者であり不透明性~存在となる。
その音声言語が基本的に使えない相手とは、外人相手に等しいであろうか?
それが単に外人であれば、それ相応な対応があるだろう。
(東京オリンピックに向けての外人対応にみるように)。
しかし、それが障害による不全であれば、どうなるか?
共に日本人で言語自体は操れるのであるから、文字を紙に書いて伝え合えば取り敢えずの事は済むであろうが。
それが全く済まないのである。
ただのコミュニケーション(不全)の問題ではないからだ。
聴覚障害者に対する向かい方の問題が大きく覆いかぶさっている。
これは障害~病に付与される隠喩を介する場合とも異なり、一種異様な他者に対する生々しい感覚と、その当の対象が極めて内向化しており所謂コミュニケーションを切断し諂い笑いと共にすぐに謝罪しその場をすり抜けようとする態度にもよってくる。
聴覚障害者である硝子は自分がそこに入ることで、みんなが迷惑をするという想いに過剰に囚われてしまっている為、他者の不快感や攻撃をかわすための自己防衛本能と自己否定(罪悪感)の感情が綯交ぜとなり、そのような態度を身に付けてしまったようだ。
合唱コンの練習時などに特に際立つ、自分が普通に発声出来ないもどかしさ等からのネガティブな自己イメージからの内面化は、相当に深いものだと映る。
しかし、小学生(6年)においてその対象に対する周囲の対応関係の直截さと粗暴な過激さは程度を知らない。
特に主人公の将也は硝子に対する違和感をストレートに暴力~いじめで晴らす。
補聴器を立て続けに外して壊す。筆談用のノートへの落書きなども日常茶飯事となる。
植野という活発な女子も、硝子の虐められても怒りを発せず自らが相手に謝るその態度が許せない(癇に障る)。
確かにその姿勢では対称性の保持できる友人関係は創れない。
しかしそうなってしまった必然性~歴史があることへの思慮がない。
そもそも、他者に対する想像力が育ってはいないのだ(大人になっても全く無い馬鹿もいるが)。
その想像力は、加害者にも被害者にも同等に育まれていない。
お互いに余裕もないと謂えようか。
そんな状況がよく伝わって来る。
高校3年の現在、思いの外人は変わっていなかった。
それはそうだ。
人は変わらない、というのがわたしの実感としてもはっきりとある。
だから分かる人は最初から分かるが、分かり合えない者とは絶対的に分かり合えない。
これは確かだ。
ただ、主人公の将也だけは、小6のときの硝子虐めの全責任を独り押し付けられて、今度は周囲の虐めを一身に受ける立場となり、硝子の転校後ずっと罪悪感に圧し潰されながら孤独で孤立した生活を送って来た。
母親に借りた硝子の補聴器代をバイトで稼ぎ渡してから死のうと試みるが、その前に硝子に一言謝ってからにしようと思うところから、何と謂うかぎこちなくシビアでリアリティもある青春ラブストーリーに発展してゆく。
手話というコミュニケーション方法による伝達のちょっとした勢いから付き合いが始まる。
そう、この物語はそのコミュニケーションのズレがよく意識されている。
硝子の自殺を何とか阻止し自分が重傷を負って入院するが、学園復帰と共に、わだかまりは解けないままだが、友人が無事に帰って来た将也を温かく迎え容れ、周囲に対する親和性を感じつつ終わるのは定石であっても、エンディングはこうあって欲しい。
何か正しい解決や解消などあるわけもなく、ただ外界に対するイメージが少しでも心地よいものになること。
和解(理解)ではなくても受け容れる心の広がりが感じられること。
彼らがそのようなイメージに解放されつつある場が学園祭というのが何とも言えぬが、各校に散らばったかつてのクラスメイトの集合場所としては妥当であろう。
テーマからも、爽快ではないが、共感は出来る丁寧に作られたアニメーションであった。
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