面白さとは

長女と一緒に作っていたロボットが出来上がった。
キャタピラで前後左右軽快に走行し、ロボットアームでモノを掴んで、任意の場所に持って行ける。
それだけでもう大喜びである。結構大変だったにも関わらず、「面白かった」を連発していた。
やはり自分で作ったものというのは格別である。
協力して作る経験も格別である。
ただしコントロールには、コツがいるため、これから意のままに操る練習は必要となる。
それも含めた過程において、言語だけによる一方的な指示や小遣いやモノを介した安直な関りより、身体的(無意識的)共感や喜びはあると思う。
今度は独りで作ってみる、と言っていたが、それはまだちょっと、、、それ相応のを選んで好きにやらせてみよう、、、。
この間、二台のパソコンの筐体にシールを貼りまくってデコを愉しんでいた次女と来年初めから、わたしが作りかけて1年半放置していたラジコンのスポーツバギーの作製を再開することにした。
これもなかなか骨は折れるが、今回のロボットから見ればずっとお決まりの工程であるから予想外のトラブルには見舞われないで進むはずだ。
兎も角、一緒に作業は続けたい。
(少なくとも一緒に買い物より得るものは大きい、、、買い物は安易すぎるし、逆効果の場合もあり得る)。
そして面白かったという経験をまずは、積ませたい。
それからついでに、、、。
昨日の「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)で昔の友人から電話があったので、いや正確に言えば要件のついでであるが(笑、、もうひとつとても面白い「もし、、、書いたら」があるので、調子に乗ってご紹介。
(あまりやってはまずいので、これっきり、である)。
昨日の続編、、、。
包装批評宣言
カップ焼きそばを作るのにはある種の「不自由さ」が付きまとう。それは五分強、調理に従事しなければならないという不自由さで、しかし、調理の実作業じたいは極めて簡易であるという、逆説的で名付けがたい不自由さだ。
麺を解体させ、乾燥という物語から生なましい食べ物へ回帰させるには、まず、お湯を入れなければならない。だが、お湯を入れてから待たなければならない「五分」という時間。これは一見、自由な時間に思えるが、しかし、「五分後には必ず戻ってこなくてはならない」という不自由さが、ここにはある。この錯覚され、倒錯した自由さは、同時にひどく凡庸な不自由さでもある。
この不自由さを規定しているのは「作り方」というある種の「制度」であり、それは「装置」とも「物語」とも言い換えられ、このあらかじめパッケージに刷り込まれ、内在化された「作り方」は、無意識的にわれわれの行動を制御し、今まさに生まれようとしする意識を縛り付ける。
言葉たちによる無意識的な束縛を避けるためには、言葉の「意味」を崩壊させ、脱説話的に「記号」を「記号」として受け取るのを拒否し、「物」を「物」として見ることを、自らに要請せねばならない。
われわれは、十九世紀的な「物語」から逃れるために、わずかな意味の裂け目から、「カップ焼きそば」という七つの文字のつらなりを解放し、生なましい本来のカップ焼きそば、「物」としてのカップ焼きそばに回帰していかねばならない。
蓮實重彦氏の(思想文体の)簡潔な教科書的な解説的文であり、勿論、パロディであるがリスペクトを感じさせるものだと思った。
全て冗談で書いているのは分かるが、読んでいるうちに自分もここに載っていないひとのものを書いてみたい気にさせる、そんな面白さがここにはある。
そんな噺を昔の友人と電話でした(笑。
面白い物とは、悉く刺激に充ちている。
そう、何かこちらの身を運ばせる~無意識を揺り動かす~ものでなければ面白くない。
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