余剰次元

昨日、掘り起こしていた畑から、幼虫が見つかった、、、カナブンか。
カブトムシより二回りは小さい。
他の幼虫もいた。
また埋めた。
このあいまいな地に。
幼虫~イモムシが蛹となり蝶に変態したとき、もうそれには幼虫時代の記憶など残っていない。
蝶として生きる~身体性を持つことに支障が出るからだ。
われわれのこの身体はまさに3次元+時間にピッタリの生存形式であろう。
だが、そのことが余剰次元の経験を原理的に不可能とする。
数学的にその構造と存在可能性を導き出せても。
われわれにとって、知る・認識するとは、身体諸共の知的再構築~新たに身体化を起こす=変態することでもある。
この身体そのものを解体(ブラックホールに落下するように)して、異なる身体性を構成することは不可避であると思われる。
それでなければ知が生きることと離反してしまう。
本来的にその矛盾が大きな軋轢や抗争を生んできてはいないか。
この世界に内包出来ない~生きることの不可能な言葉は本質的に、異なる世界~次元で発せられなければ有効ではない。
どうやら重力があるべき次元にどのように絡んでいるのか分かっていないことに似て。
完全な解体と再構成、いや再生(宗教的には復活)は、この世界内~地平においては不可能である。
同一時空~同じ場に新旧ふたりの自分は物理的に存在できない。見えない。
死と生がまさにこれに相当すると謂えるだろう。
幼虫から成虫への変態は、幼虫としての死であり、同時に成虫の(もはや彼・彼女にとり何の連続性もない)誕生に他ならない。
自分の誕生と自分の死は誰も認識できない。その中間を何もかも忘れた自分として生きて逝く。
死者たちはいったいどこに行ったのか?
思いの外小さくない、次元にコンパクトにまとめられて存在しているのか。
死者たちはどこにいるのか?
わたしは知的異星人からのメッセージより死者からのメッセージが聴きたい。
どれだけ有効なものか。
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