S君の仕事-断片補遺

別の機会に、としておいた、S君の武勇伝?など幾つか、、、。
これはO君からまず聞かされた件である。
砂漠の群像などの洋画で有名な国領恒郎氏(日展審査員・日本芸術院会員)とS君はある期間とても親しい関係にあるとわれわれには映っていた。
国領氏がS君の作品に興味を示し、よく観ていたことは知っている。
或る時、氏がS君から気に入った作品を一枚借りたそうだ。
一流作家から認められればそれは嬉しい(まず悪い気はしまい)。
だが貸したはよいが、暫く手元に作品がないことを淋しがっていた。
彼にとって作品は、自分の息子のようなものである。それはよく分かる。
(わたしは大事にしてくれる人なら結構気前よくあげてきたものだ、、、今考えると惜しいものもある)。
O君が遊びに行った時もなかなか作品が戻らずブランクの壁面を淋しがっていたそうだ。
それはわたしも本人が漏らすのを聞いていた。
(恐らく彼は隙間自体を好まない体質に思える)。
しかし、暫く後に行ったとき、作品がそこにしっかり収まって~戻っている。
「よかった、戻って来たんだ」というO君に対し「いや、また同じもの描きました」と平然と返すS君がそこにいた。
O君は絶句した。わたしもそれを聞くなり絶句した。同じように(爆。
ちょっと描けない。それは勿論、最初から30枚同じ踊り子の絵を描くといった目的(目的が絵の外部にある場合)で、仕事で売り絵を描くケースは知っているが、普通一点ものとして描いた場合、絵はその制作過程(試行錯誤による生成過程)から考えても同じものは描けない。
つまりその一回性の時間そのもの~精神運動の物質化現象なのだ。
再度時間を繰り返す(生き直す)ことの不可能性に等しい。
無理にやるには思想的に信条的にどうこうではなく、生理的に(身体性において)極めてきつく不自然なことになる。
だが、S君はさらりとそれをやってのけてしまう。
通常なら、コピーしようと思って、描き出しても進むにつれて異化されてゆく。
最終的には異なる絵となる。
勿論、S君のように見たところ寸分違わぬ(恐らくそうであろう)絵となっても、異なる絵であることは相違ない。
微細な部分は違うだろうし、時間性において完全に異なる場にある。
当然そうなのだが、われわれが描けば見た目にも(構図・内容・筆致・色彩等)自然に変質する。
もしかしたら、ここがS君の制作行為の本質的な部分なのかも知れない。
壊れたジオラマを元通りに戻す~直す行為。
もう一つ同じジオラマを造る行為。
この身体性~身振りに近いことかも知れない。
または伝統工芸の作家にも通じるところも感じられる。
ただ売り絵作家とは方向性が最初からはっきり異なるものだ。
恐らく彼にとっては通常の「コピー」という言葉はそぐわない、もっと神聖な呪術的でもある再生の儀式なのだ。
ただ淡々と息子を蘇らせているところが、如何にもS君なのだ。
「コピー」ということばや逆に「藝術」(自然科学も含)などという思想に妙な思い入れや拘りを一切持たない場所にいる。
ことばから解放されていて自由~自在である為に出来ることは、きっと多いし多様なのだ。
外の枠など端からどうでもよく、彼はそれと対決することもなく自分のすべきことのみしている。
ここがある意味、羨ましい体質であり資質である。
わたしはどうしてもいちいち対決の場をもってしまう。そういう体質なのだろう。
その後、作品が戻ったのかどうかは、一度も話したこともない。
また、作品を再生するケースがあったかどうかも聞いていない。
ただ、それはほとんど彼にとっては、どうということもない通常の制作過程の内のようだ。
今回は一つだけになってしまった。
またこの場は設けたい。面白い噺は他にもある為、、、。
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