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セザンヌ

Cézanne001

セザンヌを観る度に頭を過るのは、「達人」ということばである。
彼の絵には、余白がそのまんまのこされているものがある。
余白と言っても背景とかではない。
人物の頭部や体~衣服である。
然も余白があってしっかり凄みのある絵となっている。

もしかしたら未完なのかも知れないし、もうこれ以上手を入れる必要なし、と謂って筆を置いた絵かも知れない。
だが、その絵の存在感は途轍もないものだ。
こんな芸当の出来る画家はそれ程いない。
日本の文人画などにはよくあるパタン~思想ではあるが、、、西洋の油絵である。
(絵に対する基本的な構えや画材そのものが根本的に違う)。
まずアングルに出来るはずはない(笑。
(あくまでも素描~エスキースとかは別として)。
アングルに限らず西洋画は偏執狂的充填の世界である。
ゴーギャンのように金がなくなってちょっとばかり絵に余白が残ったという例もあるにはあるが。

どこかセザンヌは孤絶している。
孤高の人である。
全ては円筒と円錐と球で構成されている、という彼の絵画論のなかの言葉があり、とても印象的というか学生時代にびっくりした概念がある。
先輩と絵の何処の部分が球で円筒で円錐か絵を探ってみたことがあった。
そうしているうちに、ちょっとそういう単純なパズル~構成を越えたものだという感じがとてもしてきて徒労感を強くしたことがある。

セザンヌのもっともセザンヌらしい絵の存在感は、そのタッチからくると思う。
アングルにタッチはない。(タッチは絶対残さない)。
タッチは厳禁という画家は結構多い。
(アングルは子供の頃は、ダリとともに凄い上手い画家として尊敬していたが、セザンヌに触れてのっぺりしたビニール製品の制作者のような感覚しか持てなくなった)。

やはりこのタッチが達人なのだと思う。
またタッチを積極的に造形そのものに反映させるひとは、そのタッチがそれぞれ個性的で異なる。
画家~身体性が違うのだから当然のことだが、それに見入るととても面白く示唆的だ。
ゴッホなど一つの絵でそれを実に繊細に使い分けている。
非常に多彩で変幻自在な使い方だ。

それに比べるとセザンヌのタッチは見て分かるゴッホのようなシステマチックで知的なタッチとはまた違う。
物凄く確信に満ちた豪放なタッチであることは間違いないのだが、余白も含めて何であろう?
天才の意匠であるか。

そういってしまえばそれまでである。
ただ、事象を日常的な概念~名称で見てしまうと、例えば大事な個性を示す顔だけはしっかり塗って体から離れた部分についてはその重要性が薄れるなどの塗り分け、が無意識的に起きてしまうだろうが、セザンヌの「全ては円筒と円錐と球による」という観念に沿って描くと、何処が有意味な中心とかいう分け隔ては少なくともなくなる。
全ては全く異なる形成力のもとで生成される。
これはひとつ、とても肝心なところだと思う。

ともかくこれ程、絵を観る快感の味わえる画家もいない。
恐らく、今流行りの何でもコンピュータで解析する流れで、この円筒と円錐と球による絵の構成とか、タッチの法則などを観てみても、何かが分かるとは思えない。
凄く潜在した造形への必然性を感じる。
全く違う文法で形成されたものがたまたまわれわれの知っている世界に重なっているような危うさと快感がある。

Cézanne002


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