女が眠る時

WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING
2016年
ウェイン・ワン 監督
ハビエル・マリアス原作
ビートたけし、、、佐原
西島秀俊、、、清水健二(作家)
忽那汐里、、、美樹(佐原と共に暮らす美少女)
小山田サユリ、、、清水綾(健二の妻、編集者)
リリー・フランキー、、、居酒屋店主
新井浩文、、、石原(刑事)
何と謂うか、、、作家である清水健二の妄想(夢)が現実と入り混じって進行する映画である、、、
時折侵入して来る剃刀と血の生臭い妄想などが、現実の世界と上手く繋がれてゆきミステリアスな雰囲気が醸し出されてゆくのだが、それがなければこれはほとんど何もなかった休日のホテルに缶詰め状態になった作家の悶々とした一週間に過ぎない。
やけに雨天が多く、リリカルさの微塵もない鬱陶しい空気感の充満するなか、ストレスも高まるだろう。
しかし後にこの滞在での体験がもとで3作目の小説が生まれたようだ。
その妄想を駆り立てたのが、ふとプールサイドで出逢った歳の差カップルである。
しかし、佐原を虜にし、健二を幻惑し、怪しい(登場人物全てが怪しいが)居酒屋店主もずっと拘り続ける魔性の美少女美樹(忽那汐里)と、かなり大胆に肢体を見せて頑張っている妻の清水綾(小山田サユリ)両者共に、ほとんど魅了されない~納得できないため、筋書きでその方向で乗せようとしているのは分かるが、どうにも噺に入り込めず、共感が出来ないまま最後までいってしまった、、、。
この物語は、設定上たまたま出逢ったうら若い女性が飛び抜けて神秘的で魅惑的(蠱惑的か)であったことから始まる。
しかしあの娘に対する清水健二の尋常ではない惹き込まれ様に、、、どうにも共振しかねるのだ。
親子以上に歳の離れたペアがプールサイドにいようと、そんなこと大きなお世話であり、それにいちいち干渉してしてきて付き纏う等、完全な犯罪行為以外の何ものでもない。何処の馬の骨だ、この戯けが!というところだが。
それでもこころを奪われ引寄せられるような相手というならそれ相応のモノでないと、、、。
(他に女優はいなかったのか、、、?映像の撮り方・魅せ方の問題も大きい)。
それだけではなく、ビートたけし、西島秀俊、リリー・フランキー、新井浩文の個性派芸達者の誰もが持ち味が上手く発揮されていないし、引き出されていない。みんながみんな不完全燃焼に終わっていて、活き活きしていない。
まあこの中では、こんなリリー・フランキーもありかな、、、とは思ったが。
西島秀俊はNHKの朝ドラで宮崎あおいと共演していた頃から見ると随分キツイ、、、別にそれと比べる必然性などないとは言え。
どうも、西島が一番のミスキャストに思えてくる。またその役がリリー・フランキーの方が合っている気がする。
だが、それでは少々怪しすぎるか?
それらの点で、とっても座り心地のよくない鑑賞となった。
プールサイドは、水と光の作用もあり殊の外、物も女性も魅惑的に見える場のはずだが、そんな感じは微塵もしなかった。
つまり、キャストと撮影・編集、それから脚本・演出に問題がある。
別に現実と妄想だけでなく時間系も錯綜して渦巻く映画などかなりあるが、グッと引き込まれる作品だって少なくない、、、。
だが、これについては厳しい。

出てくる人々がみな芸術家肌のようだが、いまひとつ深まりも広がりも香りも感じられない。
佐原の「美樹を10年もずっとビデオに撮り続けている。」
然も「常に上書きで」というところなど、現代(前衛)ビデオアーティストか!とも一瞬思って少し前のめりになったが、、、。
後で、良いものはみな保管してあるって、、、違うじゃん!?普通のお父さんか?である。
あの娘の感情的?な行動もいまひとつ脈絡に生きてこない。
セリフによる説明など当然ない方がよいが、動きのコンテクスト上の流れに唐突で無軌道なだけで終わっている。
彼女のこれまでの成育歴が独特なものであったという背景は充分匂わせており、恐らく彼女は新しい自己編成の為、まず解放されたい一心の身悶えであったか、、、とも思えるが、何か物足りない。
この娘が殺されたのか失踪したのかどうしているのか、分からないのはそれでよいと思うが、こちらもさしてそんなことはどうでも良いところなのだ。
そう言えば、あれほど娘に取り憑かれた清水健二も特に血眼になって探すようなこともしない。
妻も作家と浮気をしたのかどうか、定かではない。
佐原がその娘の不在にどう関与しているのかも実のところ分からない。
ただ、それらを知りたいとか想像してみる気が起きないのだ。
それを味わいたくてもう一度観てみようという気も当然、ない。

そんな映画だ。
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