「鏡」を観て~タルコフスキー

元地質学者で、シベリアの空気で肺病が一時良くなったという、タルコフスキー。
そのさい、自然に対する彼の向き合い方も決まったという。
彼の根源的な物質的想像力もそこに育まれたのでしょうか。
この「鏡」は36シーンで成ります。
全て幼少期の詩情溢れる想い出と現在の彼の想いの錯綜するもの。
母と幼少年期の自分と今の自分と妻。
暗示的な冒頭から、幻想的な美しさで全編が綴られてゆきます。
脚本はタルコフスキーとミシャーリンが半分ずつ分けて書き上げていますが、どのシーンが誰の作かは秘密となっています。
映画の中での詩の朗読はタルコフスキーによるもので、詩の作者は詩人として名高い父であるアルセーニー・タルコフスキーによります。
各シーンの組み合わせは、タルコフスキーもミシャーリンも大変苦心し結局、6シーン残ってしまったそうです。最終的にこの混迷した事態を解決し、ピタリと全シーンを見事に流れるように組み合わせたのは、タルコフスキーの奥さんだそうです。
全く自然に、抵抗なくただ美しい想い出の片辺となっています。見事としか言い様がありません。
しかし、もともと意識とはこのような重層的な流れによるもので極めてリアルな内面世界の現実が描かれていると思われます。こればかりは言葉では表現不可能であり、タルコフスキーの天才が映画の形式を極限まで使い、なし得たものでしょう。
他のタルコフスキーの映画に比べても線状的なストーリーが乏しい分、短めのシーンの完成度の高さとその切り替えがめくるめくものです。秘めやかな予感と気配に支配されて。ここはある意味ノスタルジア以上に。
特に、テーブルの上のカップが置かれていた事を窺わせる、湯気の跡が静かに消え去ってゆく場面や「なんとかなるさ」と鳥が放たれ、羽ばたき飛び去ってゆくと、妻が横たわったまま宙に浮いている美しい結晶的シーン。
窓のガラスが突然割れたと思うと、風が草叢をなびかせて渡り、テーブルの上のランタン?が転げ落ちてゆく、、、。いたるところでギリシャ時代の哲学者のごとくタルコフスキーの宇宙の基本元素が触知されるものになっています。
水・火・土・気(風)さらになびく草の雄弁さ手触り感が印象に残ります。
後半のバッハのヨハネ受難曲以外はタルコフスキーの映画音楽観を熟知しているアルテミエフによるアンビエント?ミュージックによって映像に的確な説得力が与えられています。このような音楽を当時使う監督はいなかったとアルテミエフは言っていましたが、それは必然的にその音楽を必要とする映像はタルコフスキー以外の人間に作れなかったということであり、それひとつとっても彼の独創性が窺えます。映像・音楽が一体化しており本当に世界に浸り込めるものです。
二次大戦・中ソ国境紛争、原爆等のフィルムの挿入もあり、この映画は体制批判が含まれていると、当局から圧力が加わり国内でも上映がほとんどされず海外のコンクールにも出せないありさまでした。
その過酷な環境下においてこれほどの作品が制作できたタルコフスキーの天才には圧倒されるばかりです。
「鏡」はロシア人誰もがそこに自分の人生を見るまさに鏡である、という内容の言葉をヤブリンスキーはインタビューでこたえていました。
タルコフスキー。
亡命先のパリにて54歳で死去。
その後、ロシアにおいて、自由(また異なる種の抑制は何時の時代にもあるが)に制作できるようになったにもかかわらず、良い作品が生まれてこないことを嘆く映画ファンや映画関係者が多いようです。

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