やっと雨が上がり

まだ月は見えない。
3日ほど前が新月であった。
まだまだ待ってから見たい。
その前に、夜空が澄んで晴れ渡っていないと、、、。
20日間くらい雨が降り続き、強風も酷かった為、家庭菜園が瀕死の状態になってしまった。
ダメになったものが幾つもある。
毎日勢いよく採れていたトマトも激減した。
農業を本職でやろうとすればさぞや大変だろうなと感じる。
我が家がほったらかし過ぎるのだが。
そう、ほったらかしもそろそろ危なくなってきた。
長女がまだ宿題をやっていないのだ。
いよいよ一家総動員で宿題に取り掛からなければならない事態となりつつある。
ともかく、手を付けるまでが大変なのだ。
また、一つの事をやりだすと、そればかりに熱中して他のものへの移行が出来ない。
適度な切り替えが難しいのだ。
スイッチが入ってしまうと、寝なさいと言っても寝ないでいつまでもやっている。
(娘の事を謂っているようで、自分にも重なって来る)。
考えてみれば、わたしも徹夜で絵を描いていた。
どうしても踏ん切りがつかぬのだ。
拘りが強いとか、頑固とかしつこいとかいう自我レベルの問題ではなく、、、
それは描くと同時に紙面に生成されるシステムに半ば憑依されている感覚なのだ。
シュルレアリスムかと謂われれば、半分そう、と謂える。
何かを解体してやろうとか新たな造形を創造したいという政治的意図は微塵もない。
しかし、自分の意識には囚われずその時に現れた論理に身を委ねている。
結構スリリングな、そんな行為なのだ。
それはとっても面白い。
ヒトの本質である、眩暈を好む行為のひとつとも謂えよう。
貞子を見てみたいのとも基本似ている。
ドキドキしたいのだ。
ワクワクの快感なのだ。
自分の枠の中でだけやることなら、もっと理性的に規則正しく抑制して熟すことも出来ようが、、、
(もう寝よう、明日が大変とか)
ある程度、飛んでいる為、そんな気にならない。
この半分、規則や帰属や日常や自分とかなど、どうでもよいという感覚がとても身体を軽やかにする。
醒めた目で(事後的に)客観的に観たら、創造のプロセスを愉しむとか謂えそうだが。
そんなものだろうか。
そこには固有の時間があり、重力がない。
しかし反面、やるべきことはやらなくてはならない。
夏休みは必ず終わるのだ。
いつもの時間流に着地しなければならない。
土日の次にはまた学校(仕事)~人間の時間が始まる。
ただその反復運動に垂直性を与えてゆかなければ。
それがこれからの課題である。

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