ザ・ドア 交差する世界

Die Tür
2009年
ドイツ
アノ・サオル監督
ヤン・ベルガー脚本
アキフ・ピリンチ原作『Die Damalstür』
マッツ・ミケルセン、、、ダヴィッド・アンデルナッハ(有名画家)
ジェシカ・シュヴァルツ、、、マヤ・アンデルナッハ(妻)
ヴァレリア・アイゼンバルト、、、レオニー・アンデルナッハ (娘)
トーマス・ティーメ、、、シギー(ダヴィッドの隣人)
ティム・ザイフィ、、、マックス(ダヴィッドの親友)
ハイケ・マカチュ、、、ジア(ダヴィッドの隣人で愛人、ミュージシャン)
よく出来た映画で、びっくりした。
神学的な意味での罪というものを匂わせる作品であった。
ただ、愛する一人娘が自宅プールで溺れ死んでしまうのだが、どれだけ深いプールを庭に作っているのか?
ドイツのプールはみんなあんなに深いのか?サメが出てきそうなオッカナイプールである。
それにも正直びっくりした。
パラレルワールドを究極の救済(死を超える場)として縋るヒトたちの在り方を見応え充分に描いていた。
この時期(2006年)は、まだかなりファンタジックな次元で捉えられていたであろうパラレルワールドであるが、いまや理論物理学の重鎮ともいえるような学者たちが、パラレルワールドを考えないと辻褄が合わないと唱え、それぞれの理論を提唱している。
(この噺が主体ではないのでやめるが、、、面白いものだ)。
ビッグバン時に無数の泡宇宙が形成されたという理論は特に有名。
ただし、他の宇宙の観測自体が原理的に不可能であるため、理論上でしか説明はつかないものとしてある。
(別の時空にあるために相互作用がない。しかも物理原理が全く異なる世界が想定されている)。
しかし、ごく最近ではその多元宇宙が量子レベルで影響を与え合っているという理論も出ている。
ともかく目の離せない勢いのある分野?であることは確かである。
この映画のように、人の身の丈レベルでの「ドア」という形で行き来が可能であれば、これは飛んでもない事件である。
当たり前だが、、、。
この事実が大きく広がらないうちに、それを知る者は結託して秘密を守り抜こうとするだろう。
誰もがその5年間遅れたそっくり世界で、掛け替えのない恩寵を受けているのだ。

ダヴィッドは自分が近所のジアと浮気中に、娘レオニーを自宅プールで溺死させてしまう。
彼女が事故でプールに落ちたとき彼は、助けられなかったのだ。
蝶を取ろうと娘に持ち掛けられたとき、彼はぞんざいにそれを断って娘を独りにしてしまった。
これ程の後悔、慚愧の念に堪えないことがあろうか。
父親としては、どんなことをしてでも償いたいし、娘を取り戻せるなら何でもやるはず。
ある時、途方に暮れて冬空のもと放浪してるときに、蝶に誘われ偶然トンネルを見つける。
そこを抜けると季節は変わり、まだレオニーは生きている時空に出ていたのであった。
その街並みの光景を見ると、何と丁度これから自分が浮気現場に向かう途上ではないか、、、。
彼は、自宅にまっしぐらに走り(ダンプにぶつかりながらも)直ぐにプールに飛び込み、溺れたばかりの彼女を救いあげる。
それはもう、あり得ないほどの感激の一瞬、である!
ただ、これで目的達成で終わるものではなかった。
この後の人間ドラマである。
その時期にすでに夫婦関係はかなり悪化していたが、娘を大事にする彼を見て、妻は次第に彼を許す気分になってゆくが、肝心の娘は彼に抵抗を示し、遠ざける。
(ちなみに、5年後の元の世界では、娘の死をもってふたりは離婚している)。
娘の為だけにその世界に来たのに肝心の娘はとってもよそよそしく本当のパパではない、あなた誰?とくる。やはり5年後のパパだと明らかに違和感を感じるのだ。
ダヴィッドは娘をプールから救って家にいるうちに自宅に戻って来た5年前のダヴィッドに見つけられ不審者と間違えられる。
もみ合ううちに、若いダヴィッドを誤って殺してしまう。
そこに本来いるはずのない自分が自分を殺してしまい、そのまま入れ替わることにしたのだ。
それしかあるまい。
これからは娘を大事に育て、家族を大切にしてゆくために彼は最善を尽くす。

しかし娘の目は鋭く、彼に不審の念を向ける。
彼女は、溺れかけた日のことを垣間見ており、彼がパパに何かしたと確信していた。
ダヴィッドは、前のパパは、レオニーをしっかり守ることが出来なかったから遠くに行った。合わせる顔もないのだ。今のパパの方が良い人なのだ、と説明する。
だが彼の誕生パーティの折、友人のマックスがレオニーの描いている絵をもとに、庭に埋めた若いダヴィッドの屍を見つけてしまう。
マックスが取り乱し、マヤにそれを告げようとするところ、彼を突然現れた隣人シギーが殺害する。
シギーもこの世界に流れてきて人生のすべてをやり直し、競馬で大儲けして暮らす男であった。
何とこの世界には、パラレルワールドからやって来た人間が少なからずおり、その利権を守るためにも、彼らの秘密を暴露しようとする人間を次々に消していたのだ。
シギーは、この(5年前の)世界を守る為なら手段を選ばない。何しろ彼は元の世界では犯罪者であったのだ。
一度、ダヴィッドはマヤとレオニーを連れて自分の元の世界に逃げようとするが彼に捕まり引き戻される。
シギーは、何としてもこの世界での自分(とその権限)を守り抜きたいのだ。
そして街に出くわした人間は目くばせし合い、彼らが実は同じ道を辿って来た人々であることがわかる。
まるで「ボディ・スナッチャー」の不気味さだ。

そして何と5年後のマヤまでレオニー逢いたさにやって来てしまう。
そうなると、若いマヤ(ことの次第をよく理解していない彼女)を殺害して、この世界で親子3人で暮らすことを強制されることになる。この世界の安定のためである。
ダヴィッドにとり、これまた大変な選択だ。同じ妻である。殺せるはずもない。
マヤ同士が路上で出くわし驚愕し合う。
そして彼女たちも理解する。
ここからエンディングに向け些か力業となるが、スリリングな脱出劇となる。
これがとても侘しいこととなるのだが、ようやく前の父より自分を好いてくれるようになっていた娘を若いマヤに託し、彼は囮となって、シギーたち移住者の追撃を食い止める役を担う。
その隙にすでに場所は一度連れてこられて知っている道を通り、母娘はあちらに逃げ込む。
パンクしたダヴィッドの車のボンネットに張り付いたシギーごとそのトンネルの入り口に激しく激突し、「ドア」そのものが埋もれて壊れてしまう。
こちらに残ったのは、結局5年後のダヴィッドとマヤのふたりであり、娘はもう一人のマヤと閉ざされた向こうの世界に行ってしまった。
これをどう受け止めればよいか。
ダヴィッドとマヤにはすでにそこにいる理由もないが、ふたりで新たにやり直すことは出来るかも知れない。
(ふたりとも力なくプールサイドに座ってしまい動く気力もない)。
娘は母と別世界で生きていると実感をもって想像することは可能である。
それだけでも救いであるか。
それとも一緒に過ごせないのなら単なる死別と等価ではないか、と考えるであろうか。
やはり罪はどうあがいても、なくなりはしないというものか、、、。
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