スリ

Pickpocket
1959年
フランス
ロベール・ブレッソン監督・脚本
ピエール・レマリ 、、、ジャック(ミシェルの親友)
マルタン・ラ・サール 、、、ミシェル(スリ)
マリカ・グリーン 、、、ジャンヌ(ミシェルの恋人となる)
ピエール・エテックス 、、、ミシェルの共犯者
ロベール・ブレッソンもかつて写真を撮っていたそうだ。
ブレッソンと謂えばアンリ・カルティエ・ブレッソン~決定的瞬間であるが、こちらのブレッソン映画もかなり写真的な映画である。
そう、「シネマトグラフ」と呼ばなくては、ならない。
「役者」ではなく「モデル」であった。
プロの役者は一切使わず、それ一本限りの素人を使うことで、芝居(演劇)掛かった演技を締め出し、感情表現を抑えた独特なストイックな絵作りをしている。何と謂うか、不純物を嫌った監督なのだろう。
この作品のジャンヌ役のマリカ・グリーンはそのまま映画界に留まった。
ドミニク・サンダも同じパタンである。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、その後女優としてだけでなく監督にもなり、ゴダールとも結婚している。
学生時代、文字通り大枚叩いて写真集を買っていた(爆。
この監督のブレッソンも写真集があるかどうか家で調べたが、アンリ・カルティエ~しかなかった(残。
しかしこの人の写真も見てみたくなる映画である。
カメラワークも時折かかる音楽も良い。
スリの指裁き?の華麗な技が鮮やかに追われている。
特に途中から3人で組んでスリを連携で行うところなど、その機械状のスムーズさに感心してしまう。
そう、動きの連続性に恍惚となる面はある。
しかし、第三者には通常これはまず見れない~経験不能ものであり、映画だから超越的に動作の流れをわれわれも確認することが出来る。
スリというものの本人にとっての醍醐味がリアルに分かる気がするところだ。
(貧困とかの理由などに関係なく、一度その快感を身に覚えてしまうと依存症的になってしまうのだ)。
それを志す人にもかなり参考になったのではないか?大丈夫か、とも思うが(笑。
フランス映画にはよくスリの場面が出てくるが、文化的に根付いている面もあるのだろうか。
この映画でミシェルの言うような「特別な権限を持つ者がいる」という特権意識を彼ももっているのか?
彼はわざわざ警部に、その手の話を幾度となく向けたり、スリの犯罪者の本を彼に貸そうとまでしている。
つまり、隠れて悪いことをするという意識ではなく、、、スリという行為自体、被害者本人に見つからずに金品を抜き取る技~仕事ではあるが、、、その仕事自体の正統性を主張する権利のある人間がいるのだ、という意識を持っているようなのだ。
要するに、職業スリを堂々とやるという、、、それとも単に自分と警察を誤魔化す為のはったりか。
良識ある親友ジャックが何度も堅気の仕事を探すように忠告するが、ミシェルは無視し続ける。
しかしどうであろう。
非常に行為に当たって虚無的で痙攣的なのだ。
堅気の仕事という選択もこころの片隅には常にある感じは匂う。
その間、ジャック、ミシェル、ジャンヌの奇妙な関係は続く。
ジャンヌはミシェルの病気の母の面倒まで診てくれていて、どういう立ち位置なのかよく分からないのだが、ミシェルの事はずっと好きでいるようだ。ジャックはそんなジャンヌのこころは見通していたが、ミシェルはそれに全く気付かない~ジャックがジャンヌのことを好きなのだろうと思っている~スリのことしか頭になく暇さえあれば指の訓練や技の練習に明け暮れている。そんなミシェルをずっと心配している友というのもかなり奇特な人である。

2年ほど、イタリア~イギリスへ渡り身を隠していたが、古巣に帰る。
ジャンヌはシングルマザーとなっていて子供がいた。
そんな折、子供の面倒は自分が見てやるとまで言ったはよいが、真っ当な仕事に就く気にはなれない。
だが犯罪にはどうしても最期が来る。
ミシェルはおとり捜査にまんまと引っかかり、競馬場で警官の財布を抜き取ろうとして手錠を掛けられる。
留置所にジャンヌがやって来る日が続く。
暫くジャンヌが来ない日があり、とても不安になりソワソワする。
そして、高熱を出した子供の看病で来れなかったと手紙が届いたときに胸が高鳴るのを覚える。
彼女への愛を確認する。ここでか?だが、そうしたものなのだ。
そこに「辿り着くのに奇妙な回り道をした」とミシェルは述懐する。

これほど手先が器用なのだから、これからはマジシャンなど目指してもよいのではないか、と思ったが(笑。
「サムライ」という映画があったが、この映画も「スリ」にしたらよかった気がする。
音的にシュールでとても合っていると思う。(しかし日本はスリの本場ではないから、日本語にする必然性はないはず)。
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