とうもろこしの島

SIMINDIS KUNDZULI
2014年
ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリー
ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督
ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ジャン・ミンボー脚本
エレメール・ラガリイ撮影
ヨシフ・バルダナシュヴィリ音楽
イリアス・サルマン 、、、老人
マリアム・ブトゥリシュヴィリ 、、、少女
イラクリ・サムシア 、、、ジョージア兵
タメル・レヴェント 、、、アブハジア士官
凄いものを観てしまった。
こんな剥き出しの生活は今の日本の現状からは想像もつかない。
セリフもほとんどない、自然の物音の中に銃声が響くくらい。
何とも言えない淡々とした緊張が続く中、、、
ヒトの生活の元型的光景を見せられるばかりであった。
祖父と戦禍で両親を失った孫娘の生活である。
混じり気のない自然とヒトとの絶妙なバランスの内の絵はまた取り立てて美しい。
音楽もそこに見事に溶け込んでいた。
美しい朝日と共に目覚め夕日が沈むころに寝屋につく。
季節の移り変わりも鮮やかである。
(孫娘の服装からも分かる)。
それが、中洲での生活なのだ。
農民は誰の土地でもない中洲に自分の農地を見出す(しかないのか?)
独りの老人が小舟を漕いで中洲に降り立つ。
上流(コーカサス山脈)から運ばれた土の堆積して出来た中洲はとりわけ肥沃なのだ。
彼は初めに中洲の土を念入りに(口に入れるまでして)確かめ、選定する。
(わたしにとって、非常に新鮮で衝撃的なものであった)。
はじめは本当に小さな心もとない面積であるが、そこに木材を何度も運びバラックを建て終わるころには、中洲はかなり広がっていることに、ちょっとびっくりする。
その広がった土地を耕し、トウモロコシの種を蒔いてゆく。
まだ十代半ばに見える孫娘も祖父に従い黙々と一生懸命手伝う。
そう、彼は孫娘を途中からそこに連れてきたのだ(実家はちゃんと陸地にある。時折物を中洲まで運び入れたりしている)。

しかしこんな心もとない、「生活」があるだろうか。
しかも戦争中なのだ。
ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアの軍事衝突の最中。
鳥の鳴き声、水の波音に混じり、河川の両岸からは両軍の銃声が響き渡る。
時折、それぞれの軍の警備艇が脇を通り過ぎてゆく。(よく鉢合せにならないなと、ハラハラする)。
そのどちらとも挨拶を交わす祖父。
緊張の走る一瞬だ。わざわざ立ち寄りワインを呑んでゆく兵士もいる。
丁度その時、その兵士たちの敵の傷ついたジョージア兵を匿っているところでもあった。
彼は高く茂ったトウモロコシ畑に身を隠して息を殺している。
(ちなみに祖父と孫娘もアブハジア人であるが、傷ついた人間を見殺しには出来ない)。
自然の脅威に晒されつつ人間界からも寄る辺ない身である彼ら。
(であるから基本的に人に対する差別は、なかった)。
そこには祖父と孫娘が身を寄せ合い送る生活があるだけなのだ。
自然と両軍による戦争の狭間で、、、まさに抽象的な間に彼らは存在する。
しかし、トウモロコシは立派に育ちしっかり収穫出来ていた。
これも自然の摂理の成せる業であろう。
祖父は何とか孫を学校が終わるまでは育てて見届けたいと願う。

しかし、うら若き娘にとって、助けた兵士は一人のまだ若い男性であった。
彼女は普段決して祖父に対して見せない笑顔と素振りを彼に対して見せて燥ぐ。
この姿に祖父は厳しい目を向け、危惧する。
ことばが通じないため、無言の表情で彼は若者を中洲から追いやってしまう。
(と言うより兵士が察して去って行ったというべきか)。
だがそれと引き換えのようにやって来た暴風雨。
集中豪雨だ。
忽ち中洲は浸食を受け、水量の増した河に呑み込まれバラックは根元から揺らぐ。
小舟に何とか孫娘と収穫したトウモロコシなどを目一杯積み込み、岸に向け押し出し逃がす。
祖父はバラックの柱を懸命に支えるが甲斐なく全て潰れ濁流に流されてしまう。
ある晴れた日、何処からか小舟に乗って独りの男が出来たばかりの小さな中洲にやって来る。
その男も中洲の土をあちこち掘り返し吟味する。
地中からあの孫娘が飾っていた縫ぐるみの人形(親からもらった想いでの人形か?)が、引っ張り出される。
この反復(そして差異)こそ自然であり人間の姿~真理である。
神話を覗いたような気分になった。
絶大な重さを感じる。
凄いものを観てしまった。
- 関連記事
-
- ロスト・バケーション
- スリ
- とうもろこしの島
- 私がクマにキレた理由
- くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ