国吉 康雄

デイリーニュース
以前から好きなアメリカの日本人画家である。
とっても身近な親しみやすさを覚えたからである。
じっくり眺めると、大変わたしの体質に馴染む絵であることを確信した。
彼の画集を観ていたら、作品制作に使った物か、彼の撮った写真が沢山載っていた。
油彩作品も好きだが、写真もとても日常的だが対象~人物との絶妙な距離感が面白く、興味を惹かれたものだ。
彼はアメリカが好きであったと思う。
移民として入国し、厳しい肉体労働と差別に会いながらも画家を目指すが、その意欲を受け止めてくれる学校(アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク)が存在し、そこで才能を伸ばせば、しっかり評価を得られるのだ。(後にその学校の教授となり学生たちから慕われる)。
この民主主義と自由は、彼はとても大事なものと思い、守らねばならぬと感じたはずだ。
この30年代は失業者も多く経済的にアメリカは大変な時代であった。
仕事を日本人が奪う、と日本人排斥運動も起こった時期である。
それでも彼は画家として、彼ならではの非常に洗練されたモダニズム絵画を生み出す。
アメリカに住む日本人であったからこそ、アメリカモダニズムを代表する画家と成り得たのかも知れない。
ヨーロッパ絵画と日本の伝統的絵画のエッセンスは息づいているが、その両者とははっきり距離を持つ独自の創意である。
特に色彩がグレーの目立つものから鮮やかなパステルカラーを使った物まであるにせよ、どれにも哀愁や虚無感が宿っており、いぶし銀の深みに惹き込まれる。

誰かが私のポスターを破った
異国の地ではやはり新聞に載る評価などには極めて過敏となるだろう。
国吉はユーモアのセンスがよく、弁舌も優れ社交的でもあったようだ。
アメリカ国内での作品の評価は高まり、ニューヨーク近代美術館から現代アメリカ絵画を代表する1人に選出される。
父の病気で一時帰国した彼は、祖国での個展を代表作を引っ提げ行う。
アメリカでの成功により前評判は非常に高かったが、絵画はほとんど売れず作品は受け入れられなかった事が分かる。
しかも軍国主義に沸く日本国内での権力の横暴に呆れ果て、帰属意識を喪失する。
自分はアメリカにしか住めない、そう自覚したときに41年の真珠湾攻撃である。
もうひとつの~今やたったひとつの母国から敵国民として厳しい視線を投げかけられる。
国吉はアメリカの民主主義を信じていたため、求めに従い「戦争画」~プロパガンダを描く。
実質、ここで究極的に寄る辺なき身となる。
引き裂かれる。
緊張感と不安と虚無が同居する。

ひっくり返したテーブルとマスク
とても自分に正直な人である為か”Upside Down Table and Mask”であることを率直に表している。
混乱を苦悶をそのまま表すところがよい。
分かり易い人なのだろう。
そこが良い。

ミスターエース
彼にしてはとても色が多く鮮やかだが、もっとも虚無的な絵である。
一見有能で頼りがいがある様に見えて、権力において非常に残忍な立ち位置にいる男である。
普段は、ピエロとして親しまれている存在かも知れない。
これくらい冷たい目が描ける~知っている人なのだ。
戦後、国吉は美術家組合(artist equity association)を作りその会長として精力的に活動する。
これはニューヨークを美術の一つの中心地に引き上げる役割を担うものであったが、非情な赤狩りの標的にもなる。
彼は反共主義政策におけるブラックリストに入れられていたのだ。
その勢力を上手くかわしつつも、圧力に悩まされた。

果物を盗む子供
わたしが一番好きな絵である。
勿論、象徴的な意味がバナナと桃、子供との関係にあることは分かるが(ジャップが黄色い白人と呼ばれていて、少年はまだ建国して程ない若い国アメリカであり、桃は国吉の出身岡山の特産でもある)、それを想わなくても単に造形的に愉しい。
絵として見飽きないのだ。
純粋に絵の魅力でじっくり時間を過ごせる画家である。
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