SOLARIS~タルコフスキーが気になり

ソダーバーグ監督のSOLARISを語ってしまったら、タルコフスキー版がだんだん思い起こされてきまして、一言加えておきたいと思います。
救いのなさについて、です。
タルコフスキーはやはりノスタルジアが一番好きで、サクリファイスが次で、ストーカーと鏡が次かなと思っています。
勿論、SOLARISが傑作であることは、私にも分かります。
タルコフスキーのSOLARISがスタニスワフ・レムの原作の哲学的主題を深く捉えているのは確かです。
妙に生々しい「プロメテウス」の船内。
水の断続的な滴り。
饒舌なお喋り。
散らばる本。
海の表情。
宇宙ステーションの中でも間違いなくタルコフスキーの世界。
SOLARISの海に、島のように主人公の家とその周辺が父親とともに再現されていくところは、見事に彼ケルヴィンの絶対的孤独を描ききっていると言えます。
自ら消えた妻がやがて出現するのかどうかはともかく、主人公が最後にすがったのは父親だったのですね。
いや、その姿はケルヴィンにも像の結べない何者かの代理。
もはや、現実に彼が身を寄せる場所も受け容れてくれるヒトもなかったのですし。
ケルヴィン自身、唖然として見つめた、あの父親の姿を借りたものは、追放された楽園における神。
SOLARISそのものです。
ヒトが内奥に抱えている他者性-虚無の現出です。
でも主人公はそれにすがるしかなかった。
他にどのような身振りが残されていたでしょう。
あの広大な海の中のあまりに小さな寄る辺なき島。
存在の本源的孤独を表現させたら、タルコフスキーの右に出る監督はいないと思います。
ソダーバーグの方は、バックエンドは妻と確定している分、安定を覚えます。
温度も風もないないような。
そのため、
この映画は究極的な円環構造に閉じており他者はいません。
タルコフスキーのものは、同様な円環構造に対し垂直に虚無の軸が、主人公の実存として伸びています。
救いのなさは果たしてどちらでしょう?
どちらにしても、どちらもわれわれの世界に他ありません。

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