レオナルド・ダ・ヴィンチ

河に渦巻く水流から運動を抽出し、戦争(フィレンツェとミラノ間)の戦闘場面~その人馬一体となった力の鬩ぎ合いに応用するという抽象性がレオナルドであろうか。きっとそこに何らかの自然学的原理を見出していたのだ。
その乱戦時の人の四肢の激しい筋肉運動や微細な表情を描き切る為、毎夜病院の死体安置所に赴き死体解剖にも臨んだ。
精緻で医学的に正確なデッサンが残っている。(わたしもレオナルド素描集を良く眺めたが驚愕である)。
極めて実証的で論理的である。
そして内面を、解剖学的に調べ上げたその動きの構造的描写で饒舌に表す。
これは最終的にあの「最後の晩餐」に結実するものか。
表面的には別の現象~事象に映るもの、微妙で饒舌な表情~表層、をその構造から描き起こすこと。
この次元から物事を捉えようという本質力に拘る画家は、少なくとも同時代ではミケランジェロ以外にはいなかった。
その後もここまで徹底した芸術家はほとんどいない。スケール的にも、、、。
レオナルドにとっては、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学それぞれを研究しそれらの成果を挙げようなどという意識・意図は全くなかった。
そもそも「学」それ自体が細分化していない。
単に事象の本源、原理を探ろうとした過程であり、結果であっただろう。
一言で謂えば「自然学」か。
ちなみに、ルネサンス時(イタリアルネサンス)にレオナルドをはじめ天才が多く輩出したとも謂われるが、ある意味今日の英才教育が良い形で実践されていたように思える。
この頃は、まだ「子供」は発明されていなかったこともあり、年少時に工房に見習いに出された後は、制限なく才能に任せて伸びる者はどこまでも自由に伸びたはずだ。レオナルドみたいに天井知らずで。

「アンギアーリの戦い」はルーベンスの模写でそれがどれほど途轍もないものであるか、時代を超えたものであるかが分かる。

そして素描と未完成が目立つ。発見と創造と技法の探求において。
しばしば技法の実験開発に失敗したことも、完成作品数の少なさの原因ともなっている。
壁画が絵の具の定着の不具合で壊滅的な損傷を食らったりすると、もう契約の面から謂ってもアウトとなろう。
完成よりも常に新たな発明に挑んでいた天才であることから、そんな事態も避け得なかった。
そもそも彼にとって、完成などあっただろうか。
「モナリザ」は終生身辺から手放さなかったという。
油彩作品は少ないが、素描はかなり多く残っている。
思考の跡を辿る見方が彼の場合、適しているのかも知れない。
普段出して観ること自体に気後れして、棚に仕舞いっぱなしでいたが、、、
とっても重い素描集をこの愚図ついた天気に部屋に出してきて観るのも良いものだ。
やはり魅入ってしまう、、、。

この続きは、また近いうちに、、、。