オディロン・ルドン

生後2日目で里子に出されるとは、どういう意味をもつのか、、、。
そこはボルドー近郊のペイルルバードという不毛な荒涼とした田舎であったという。
家はボルドーの裕福な家庭であり、何らかの親の都合があったには違いない。
少なくとも親元に帰る11歳までは、漠然とした喪失感と寂莫感に宙吊りになって過ごしていただろう。
その分自然との接触は遥かに他の子どもより濃密で自由であったはずだ。
学校にも行っていなかったらしいから尚更。
ただ病弱で病気がちであったというから、野山を駆け回るような接近ではなかったと思われる。
(そうであれば、いやでも悪ガキ仲間とかができるはずだが)。
それは自然の光や色や音にめくるめく夢想を豊かに内面に蓄積することかも知れない。
非常に強い憧れを宿した、憧れと未来からやって来る郷愁と、、、
過剰な渦巻く夢想。
G・バシュラールのいうような物質的想像力に充ちてゆく。
自分にもほぼ同等の経験があるため実感できる。
11歳で帰って来て彼はどうだったのか?
深い落胆しかなかっただろう。
完全な孤独を知った事だろう。
分かり過ぎるくらい分かる。
そういうものだ。
自然~宇宙の大きさに高密度で膨らんだ憧れと郷愁は、すでに親のエゴや家族~共同体のファシズムのうちに変換・解消され収まることは出来ない。もはやインフレーションは止められない。
ここで更に彼は学校にまで行かされる。
こんな歳になって、突然学校に放り込まれるのである。
この強要にどうして耐えることが出来るか?
(しかもどの年齢で教育を受けさせ、学校制度に投げ入れるのが適当かなど教育学的にも何らこれまでまともな考察などない)。
彼のこころの拠り所は、音楽と絵画であったという。
わたしもこころの拠り所は、音楽と絵画であった。
それが絶大なものとしてあった。
そう絶大なのだ。
万能感と果てのない愛情を受けそこなった場合~これは永遠の幻想の類(特殊性と謂うより人であることからくるロマンに過ぎないか?)~人が本質的に持つ疎外観念か、または過剰さを求める本源的欲望であるか~何にしても、その代わりとなるものはこの他にない。なければ枯渇して死ぬようなモノであり、空気と同等のモノである。
(いや数学の天才ならひたすら数学をやるだろう。数学は特に10代が勝負だ)。
学校も美術学校も当然続かない。
それは、はっきりと彼の中に確信を生む。
「自分がいつもやって来たことの他の方法で藝術を生むことは出来ない」
ということだ。

ルドンの夥しい眼差しの群れ。
大概、それらは特別な感情を持たぬ、一つ目であったり、、、。
そのほとんどは重力の影響を受けていない。
思考と夢の純粋な運動から生まれてくる。
起源:「おそらく花の中に最初の視覚~ヴィジョンが試みられた」
~わたしは、見えるものの法則を可能な限り見えないものの為に奉仕させたのだ~
これがルドンの生理であるだろう。
必然の流れだ。
緋色のように美しい黒。
全ての色彩があらん限り封じ込められてゆく黒。
ここから蛹が成虫に変態するように色彩が開闢~ビッグバンする。
これは絶対に徐々に変化するような事態ではなかった。
瞬時の相転換である。
木炭からパステルへ。
或る時、豊かな漆黒の夢想は、歓びの色彩に溢れ散った。
二度目の起源:インフレーションが起きたのだ。
色彩はパステルを経て、水彩や油彩によって更に加速して広がり深まる。
題材はギリシャ神話そして再び「花」へ。
見えないものを通って見えるものに色鮮やかに開花する。
物理原則を目の当たりにするみたいに。

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