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SOLARIS~ソダーバーグ監督版を観て

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わたしにとって他者とは何か?
死と生とは何か?
そして
夢と現とは何か?
善・悪とは?

存在学的問いを科学・哲学的議論や説明なしに極限まで問いつめ、ゆくべき道を
躊躇しつつ確かに選びとってゆく存在の姿を情感豊かに描ききった映画であると言えます。


主人公の親友ジバリアンは
「われわれが必要なのは別世界ではない
自分を写す鏡だ」と述べます。

さらに「ソラリスは観察されているのを知っている」
とも

主人公ケルヴィンはジバリアンの要請でソラリスの観測ステーション「プロメテウス」に到着する(呼び戻される)が、初っ端からジバリアンの自殺を確認し、訪れた途端に目的を失う。
そこから


あらゆる言葉の無力な、夢と錯綜する現実の深みにはまりこんでゆく。

主人公ケルヴィンのもとに、昔自殺した妻レイアが突然現れる。
まさに夢の続きのように。
はっきりと受肉して

「客は来たか?」(スノー)

「あれはなんなんだ」(ケルヴィン)

スノーの呪いの言葉
「戻ってきて欲しいのか?」

宇宙空間に追放しても
反復して睡眠の内側から立ち現れる
レイア

「わたしは何も覚えてない
あなたのことしか覚えてない
窓の外はなんなの」

「ソラリス」

「記憶はあるけど
体験はない
何が起きてるの

でも知りたくない」
レイアも悩み始める
存在の根源的な苦悩を抱える。

そして孤独を知り
絶望に打ちひしがれる
彼女はまさに彼と同等の「人間」となる

彼女は液体酸素を飲んで自殺する
が、再生してしまう
死ぬことも出来ない
「人間」

ケルヴィンは
彼が愛する者は、ヒトではなく自分の記憶の反映・投射体でもない他者、ほかならぬ「レイア」
そのものだった。

そのために闘う意思を固める
レイアへの思いを断ち切れないからではなく
相手がなにものであろうが夢であろうが現実であろうが「レイア」とともにいるために
死や生など関係なく、善悪の彼岸で「彼女」と一緒にいる事を選ぶ!

そもそも他者とは何か
他者とは何か


そこには善も悪もない
あらゆる想念を洗い流し
すべての記憶を消尽した後でも

自分の他に永遠に残る何者か

そして 
存在者には
ただ選択だけが残されている
恐らく死後においても


勿論、主人公は選び取った。自らの意志で。


それが何処であっても
彼らの場所は彼らのために用意される。

「わたしたちはすべて許されたのよ」
レイアのことばでだれもが救われる?
果たしてそうか?



原作はあまりに前、中学の時に読んだのであまりはっきり覚えてません。
タルコフスキー版は今回は基本的に積極的に言及しないことにします。
比較しても意味はないので。映画そのものの捉え方、前提が異なると思われるので。
ただ、幾分かタルコフスキーの方が原作に忠実な気はします。
しかしある意味、レムの原作・タルコフスキーの映画より、主演の二人の関係性においてはこの作品の方が一歩深化していると言えます。
なぜなら、ソラリスによって作られた、ケルヴィンの鏡に過ぎない「レイア自身」も存在の苦悩を十二分に負うているからです。「存在」すること「存在者であること」で負う苦悩を人間以上に背負っているからです。
 
ソラリスに、敵意・害意は感じられない。
ただヒトの想念・意識を鏡のように見せてきただけ。
見つめる存在を見返すように。

しかし、孤独でシニカルで時に軽薄な主人公は、確実に強く深みのある人間になってゆく。
特に、彼女を受け容れる決意をしてからの生気ある力強い姿。
レイアもソラリスの一部でありながら、一個の存在として苦悩し自立してゆきます。
ソラリスもただ想念を映し示すだけでなく、手を差し伸べてきます。
ほとんど宗教画とも言えるあの場面、あの天使は親友のこどもか、2人の失われたこどもか?ソラリスの明瞭な意思の現れ、そう彼に自由な選択を迫ってきたのです。


「2001年宇宙の旅」「ブレード・ランナー」「ソラリス」(タルコフスキー)をSF映画の3金字塔と呼んでいるそうですが、この「ソダーバーグ版ソラリス」はある意味原作やタルコフスキー版より異質に受け取れて、テーマを見事に深めている点ではタルコフスキー版に勝るとも劣らない世界を現出している映画作品と言えます。なによりもレイアの存在の豊かさこれは格段にこの作品の存在学的重みを増しています。

この映画の説得力は、リゲティをオマージュにしたクリス・マルティネスの曲に負うところも大変大きいです。静かな空間に非常に禁欲的に流れる映像と完全に一体化した音楽。音楽をバックミュージックと意識させない雄弁な音楽。流れていたことを思い出せないほどの。

またブレード・ランナーにも比較できるライティング。あのレンブラント光線に対し、こちらはあくまでも静謐で内省的で禁欲的な照明。しかしこのトーンがなければこの世界は描ききれなかったことは確かです。
物質的で平面的な効果を産み出した人物の浮き立たせ方は、時にラトールを思い起こさせます。

さらにディテールの徹底した物質的なこだわり。これは、タルコフスキーにもリドリースコットのブレードランナー・エイリアンにおいても同様に見られるもので、この物質性(物質的ディテール)を徹底的に追い詰めることで不屈の名作足りえたと考えられます。(エイリアンは恐らくそれのみで世紀の傑作となった例です)
この物質性の追求はどれだけ強調してもし足りないところです。

タルコフスキーとレム原作は「海」が主人公でした。絶えず描かれてゆくソラリスの海の表情。あの恐るべき知的生命体。コミュニケーションを拒む海。
こちらは徐々にその大きさ(重力)を増してゆくシナプスのスパークするような火の玉のようなソラリス。しかし常に窓の外から見られる不思議に穏やかな惑星。

ジョージ・クルーニーとナターシャ・マケルホーンの緊張感いっぱいの張り詰めた演技も然ることながら、ジェレミー・デイビスのサイキックな演技は圧倒的なものでした。それに加えて唯一の理性と合理主義を守り続ける物理学者のゴードン役、ビオラ・デイビスもなくてはならない象徴的な存在を力強く演じきっていました。
総勢五人の、狭い宇宙船内の限られた空間でのサイコスリラーでもありますが、夢-思い出と現、生と死、自己と他者、善と悪、、、これほどのテーマをここまで追求した映画(あえて映画とします)は、そうはないと思います。
またこのテーマを徹底的に追求するに、SFという形式は最適なものでしょう。
やはりこの映画と対等に評価できるものは、先に挙げた作品(金字塔作品?)に落ち着くと思います。






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