バス停留所

Bus Stop
1956年
アメリカ
ジョシュア・ローガン監督
ウィリアム・インジの舞台劇原作
マリリン・モンロー、、、シェリー(酒場の歌姫)
ドン・マレー、、、ボー・デッカー(カウボーイ)
アーサー・オコンネル、、、ヴァージル・ブレッシング(カウボーイの先輩)
ベティ・フィールド、、、グレース(ドライブインの女主)
アイリーン・ヘッカート、、、ヴェラ(シェリーの親友)
ロバート・ブレイ、、、カール(バスの運転手)
ホープ・ラング、、、エルマ(グレースの娘)
マリリン・モンローの出る映画は尽く、彼女の魅力で成り立っている。
多くの映画は、配役が変わってもそれなりに成立するものだ。
モンローの映画は彼女の存在が際立っているという次元ではなく。
モンローは映画に先立つ。
モンローの映画を観ているうちに、われわれはモンローを観ていたことに気づく。
映画を動かしてゆく装置として。
荒唐無稽な程、他者の見えない独りよがりで粗暴なカウボーイ、ボー・デッカー、と投げ縄。更にチェリー。
シェリーのエメラルドグリーンのサテンのスカーフと衣装。そして地図上の「ハリウッド」。夢の「歌姫」。
ボーの実質保護者であるヴァージルと彼のギター。歌。
ボーの暴挙を止めることができる腕力を持つカールと彼の雪で止まる長距離バス。
アリゾナでのロデオ大会(パレード含む)。
グレースの店と主のグレース、シェリーの話の聞き役のエルマ。
シェリーを保護し寄り添う親友のヴェラ。
モンタナ州の田舎。
果たしてモンタナの田舎で21まで牛や馬相手に牧場暮らしをしていると、このような若者が育つのだろうか、、、?
ボーという若者に1956年当時のアメリカンはシンパシーを抱きえたのだろうか?
社会性や協調性とかいう問題におさまらない、突出したパーソナリティに思えるのだが。
寧ろ自然や動物に深く接して生きてくれば相手を思いやる感性豊かな優しい性格・性向が育たないだろうか。
コメディ調に極度に誇張した人格であろうが、他者に対する感覚が欠落した内面性の感じられない外に対する暴力的な衝動・欲動のみで生きている粗野な男である。
シェリーに一方的に自己意識を投影し、彼女自身(存在)についての想像・配慮など全くなく、自分の欲望を単に彼女をもって晴らそうとするだけ。だから呼び名も自分が呼びやすい(彼女が嫌う)”チェリー”で押し通す。これが万事である。
得意技とばかり、投げ縄で彼女を拘束して、モンタナ行のバスに乗せてしまう。(まさに牛と一緒である)。
(わりと最近わたしはこれに似た古い知人に遭った。以前と変わらないどころか更に進行していた)。
一方、シェリーは自分で舞台照明を足で調整するような場末の酒場のステージで歌っている。
客と呑む酒も紅茶しか出されない。ヴァージルにウィスキーでないことを簡単に見破られてしまう。
勿論、歌も誰もまともに聴いてはいないし、支配人からもカス扱いだ。庇ってくれるのは親友のヴェラくらい。
その現実にいながら、ハリウッドの歌姫を夢見て少しづつ地図上で移動してゆく生活を送る。
だが、実際例えハリウッドに到着してもそれで上がりではなく、そこで才能が認められるかどうかの問題である。
勿論、残念ながらマリリン・モンローのようにスターの座を勝ち得ることは、シェリーには極めて困難であろう。
彼女は、認められたい成功をしたい、という不遇を覆そうとする欲求と同時に、自分を安らかに包み込んで欲しい、癒されたいという願いも強く抱いている。
エメラルドグリーンのサテンのスカーフと衣装から象徴的に受け取れるものだ。
しかしその想いを受け止められる相手は、現れない。
ふたりが似ている面は、お互いに正直者(嘘がつけない)というところか。
だが、ボーは他者としてシェリーを尊重し受容する器ではない。
本来なら、ここでアウトでジ・エンドである。
だが、彼には保護者ヴァージルと彼に力沿いしてくれるカールがいた。
グレースとエルマもよい潤滑油の働きをしてくれる。
彼らが教育者として彼に正面から立ちはだかる。
ヴァージルのギターは実際よい演出でもあった。
まだ21であったことも幸いしただろう。
後10も歳をとっていたならもう厳しいはずだが、まだこころが柔らかかったようだ。
学習の余地(ポテンシャル)も残っていた。
動物や自然から吸収しきれなかったものを、彼はシェリーから得たと言える。
それは取りも直さず、彼がその契機となる憧れを彼女に無意識に投影したことに始まる。
彼が最初バスに乗り込んだ頃には、その準備~心的な変化を始めていたとも言えよう。
まだまだ前途多難なはずだが、相手を受容する視座をもったことがふたりを結びつけた。
この極端な設定の本来なら(特にフェミニストから)批判も沸き起こりそうな突飛な噺を、モンローが何か柔らかく儚く感動的ですらある映画にしてしまった。
これは彼女という存在~身体性でしか実現出来ない技である。
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