それでも恋するバルセロナ

Vicky Cristina Barcelona
2008年
アメリカ・スペイン
ウディ・アレン監督・脚本
ハビエル・バルデム、、、フアン・アントニオ
レベッカ・ホール、、、ヴィッキー
ペネロペ・クルス、、、マリア・エレーナ
スカーレット・ヨハンソン、、、クリスティーナ
スペインの太陽とガウディの建築があれば、こういう気分になるものだろう。
それは正しい。
「成就しない恋愛こそロマンチックだ」とは実にめでたい。
きっとこの気候と景色がよいのだ。
展開は小気味よい。
ちょうど良い時期にナレーションが入り、歌が入ってくる。
この辺のウディ・アレンのセンスは好きだ。
「ミッドナイト・イン・パリ」もこのセンスが光っていた。ただジョークは向こうの方が上で、もっと面白かったが。
ともかく、重くしないでオシャレに運ぶ。
扱っている恋愛沙汰自体はそれこそ、かなりシンドくてドロドロしたものだが。
アメリカの一般的な結婚生活~価値観にはウンザリというところはよくにじみ出ている。
(彼らの場合、アメリカのセレブであるが)。
ただ、こちらに来れば何かが変わり、自分にピッタリのもの~生活スタイルが見つかるかというと、、、
そうもいかない。
(アメリカを離れてここで経験したことは、意味はあったが、やはり強烈すぎたか?)

そもそもふたりは安定~確信(発見)を求めてきたのか?
そうではない。
だいたい、自分探しの旅だなんて、、、探し当てた先の自分などという幻想は存在し得ない。
元々ないもの探すこと自体が甘ちょろい。というよりその身振り自体が甘い。
ただの気晴らしのレベルに過ぎない。
マリア・エレーナがクリスティーナに対して吐いていたことば「あなたは慢性的な欲求不満よ!」
その通りで、どうあっても、人は今に充足できない。
恵まれてるとか幸せとか関係なく、今在るところのものからはみ出ていくのが存在形式として必然なのだ。
現状を解体して~破壊して違うものを構築し続ける。
この構築し続ける運動こそが生であり性であろう。
そこに自分とか何とかは関係しない。
ひたすら運動する~生きるという事実があるだけだ。
ガウディの建築そのものである。

本来、人間には中心がなく、永遠に日々のディテールを記述しながら未完の長編を構築し続けてゆくしかないのだ。
それがガウディであり、カフカが鋭利に示した世界なのだ。
フアン・アントニオとマリア・エレーナの関係はもっとも創造的で破壊的な、ある意味理想的な方向性をもったものであるが、安定とは無縁でひとつ間違えれば死に直結してしまう。
それに中途半端に憧れるクリスティーナとヴィッキーは、その事態を垣間見て経験はするが、やはり観光客としてアメリカに戻ってゆく。
特にヴィッキーは、最後のフアン・アントニオとマリア・エレーナの拳銃沙汰で外傷経験をもってはいないか。
これで懲りてしまうと、行く前より典型的なアメリカ(セレブ)型に収まってしまう。
大概はそのパタンではなかろうか、、、。
今の生活を、諦観で染めない、、、そこに尽きる。
わたしにとってここに出てくる人物など誰も皆、基本的にどうでもよく、この群像劇を見ていて感じたことが以上のことである。