郵便配達は二度ベルを鳴らす 1946

The Postman Always Rings Twice
1946年
アメリカ
ジェームズ・M・ケイン原作
テイ・ガーネット監督
ラナ・ターナー、、、コーラ・スミス
ジョン・ガーフィールド 、、、フランク
セシル・ケラウェイ、、、ニック(コーラの夫)
ヒューム・クローニン、、、アーサー・キーツ(弁護人)
レオン・エイムズ、、、カイル(地方検事)
風来坊と美しい人妻との恋である。
アメリカ版フーテンの寅さんか?
とは到底言えない、きな臭いものである。
1942年版のルキノ・ヴィスコンティのものを昔見た気がするも、まるで内容は覚えていない。
他に、ボブ・ラフェルソン 監督のジェシカ・ラング物。もうひとつあるはずだが、知らない。
やはり4回も映画化されているということは、原作がよくできた有名なものだからであろう。
今回、このバージョンを観てみて、とてもよく出来ているなと思った。
しかし、あえて他の3作もしっかり観てみたいとは思わなかった。
これでよし、、、という感じ(笑。
原作本からのものだ。「アメリカでは郵便配達はいつも玄関のベルを二度鳴らすしきたりに なっている。つまり来客ではないという便法である。それに郵便配達は 長年の知識でどこの何番地の誰が住んでいるかをちゃんと知っているから、 居留守を使うわけにはいかない。二度目のベルは決定的な報を意味する。 それと同じようにこの小説では事件が必ず二度起こる。パパキダス殺しは 二度目で成功する。法廷の争いも二度ある。自動車事故も二度、フランクも 一度去ってまた帰る。そしていつも二度目の事件が決定打となるのである。」
この映画でも全くそのとおり、全て2度起きる。構造はほぼ一緒のようだ。パパキダスはこの映画ではニックである。
何といってもラナ・ターナーが美しかったが、いきなりシュールな出で立ちで現れたときは、ポカンとした。
(「ジキル博士とハイド氏」のときよりも幅のある演技をしている)。
直ぐに1946年度作品であることを再確認した。
官能的ではなく、純粋な美しさを(意図的に)強調しているように見受けられる。

フランクにとっていきなり運命のファム・ファタールとなった瞬間だ。
彼女の白いドレスが目立つ。無垢の悪意とでも象徴しようとするものか、、、。つまり運命的である。
この時、口紅を転がしてフランクに拾わせるが、自動車事故で最後にまた(2度目に)彼女のてから口紅がこぼれ落ちてゆく。
一口に言えば愛憎劇である。(しかし演出的に余り重厚さや重苦しさはない)。
まずヒトは現状に満足は出来ない過剰な観念の動物である。
ここでは、フランクは一所には落ち着けず常に流れ歩く。
コーラは、経済的に安定してはいても、刺激に乏しく退屈な毎日に不満を抱えている。
そのふたりが出逢い、観念的な飛躍に向かってしまった。
殺人など、彼らおのおのでは、到底できないものだが、あのように「ふたり」を巡る「関係」が忽然と磁場を生じさせてしまうのだ。
(愛)欲が絡んで短絡的に夫ニックを殺す計画を実行したときから泥沼にはまり、、、戻れない運命へと引き釣り込まれてゆく。
周囲にだけでなくふたりの間にも疑心暗鬼が生じて話は拗れる。(元々不安で不安定なふたりである)。
そして2度目にある意味、ケリがつく。
利権絡む裁判上の取引。
一度目の裁判では、フランクは無罪、コーラは過失致死で執行猶予つきで、この先上手く話が運んでゆくはずはないと観ていると、案の定ゆすりたかりが出てくる。
しかし、ニックにあのタイミングで保険金をかけたのが誰かは明かされない。
(丁度その頃あいをみて、彼らの車を尾行して来たカイルが妙だ)。
もうひとつ彼らを利用するかたちで絡んでいる者がいるのか。
映画では単にそれを仄めかす程度である。
ニックのお人好しさも異常なくらいで、わたしはずっと彼が何か企んではいまいかと怪しんでいたら、二度目の事故であっけなく死んでしまった。(ヒッチコックなら彼にかなり捻りの効いた役柄を負わせないか?)
夜の海のシーンだけはこの時間流から抜けた解放感と神秘性が漂う。
最初に出逢ったばかりの二人だけの瑞々しい海水浴。(ここで何故ニックが二人だけで行かせたのかは不明)。
最後の泥沼から這い出てふたりのやはり夜の海水浴での遠泳と帰還の爽やかさ。
これはまさに死と再生の儀式以外の何ものでもない。
(彼らにとっては、全てをチャラにして出直す絶好の機会となった)。
この先希望の光が見えてきた時の不慮の事故。
彼らにしてみれば運命的な悲劇と言える。
これもニックの遺産を独占するためのフランクの事故に見せかけたコーラの殺害と報道された。
だが最終的に生き残ったフランクがコーラ殺しではなくニックの殺害で死刑となることで、彼は解放される。
コーラはわかってくれている。あの世で一緒になれると。
やけに晴れ晴れとした表情でそれを語る。
かなり哀れで自分勝手の究極であるが、話自体テンポよく見易いものであった。
1939年にピェール・シュナール監督で最初の映画化が図られている。
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