アンナ・カレーニナ ~ キーラ・ナイトレイ

Anna Karenina
2012年
イギリス
ジョー・ライト監督
トルストイ原作
キーラ・ナイトレイ、、、アンナ・カレーニナ
ジュード・ロウ、、、アレクセイ・カレーニン伯爵
アーロン・テイラー=ジョンソン、、、アレクセイ・ヴロンスキー伯爵
ケリー・マクドナルド、、、ダーリャ・オブロンスカヤ公爵夫人
マシュー・マクファディン、、、ステパン・オブロンスキー公爵
ドーナル・グリーソン、、、コンスタンティン・リョーヴィン
アリシア・ヴィキャンデル、、、エカテリーナ・シチェルバツカヤ
1948年版を見たが、今回の絢舞踏会の爛豪華さには参った。登場人物たちが人形のような装飾的な輝きに満ちている。
「舞踏会」そのものが楽しめる「絵」であった。
美術・衣装の勝利か?
田園~農業の草刈の光景も大変美的に撮られていた。
この映画、ただひたすら美しく絵作りしましょうというコンセプトに受け取れた。
中国の宮廷ものにも同様な質感があるが、ゼンマイを巻かれた間だけ優雅に踊り恋をするカラクリ人形界にも見える。
明らかにそんな演出だ。
ある意味、アンナたちの世界と、コンスタンティンの世界の対比を描く物語でもあるが、双方とも幻想的なまでに華美である。
構成そのものが華麗な舞台劇を観る思いである。
精巧極まりない模型(箱庭)を観るようでもあった。
それを特に際立たせる手法として、瞬時に舞台に切り替わったりするところには、何度もハッとさせられる。
映画(特に初期の映画に)につきものの列車が幾度となく挿入される。
感情の高まりの演出のイメージとしても現れる。
かなり大きく精巧な列車のジオラマでアンナの息子が遊んでいたが、その模型も随所で走っている。
肝心の愛憎劇としての部分であるが、、、生憎、わたしにはほとんどピンと来なかった。
アレクセイの感情を抑えた気品ある対応には、感心したが、アンナ他の恋愛感情の放出には感情移入は不可能であった。
ただ、客観的に眺めてはいたが、そうなのか、、、という感じで終わった。
一体何を苦しむ必要があったのか、、、?自己破滅型の人々なのか、、、貴族には時折そういうタイプは見受けられる。
何故ここまで転がってゆくのか、、、どういう顔で見ていたらよいのか、、、あれよあれよである。
普通に、美しいと感じる相手にはそう素直に思えば良いが、それを現実の恋愛対象に出来るかどうかは、最初からはっきりしている。
アンナは聖人と呼ばれる国家的に尊敬される夫と最愛の息子までいる。
その関係を破壊して周囲を滅茶苦茶にしてまで、果たして一目惚れのヴロンスキーに一途になるものだろうか、、、。
(愛情ではなくそれは単なる欲望であって、それをコントロールするのが知性の役目ではないか?)
おかげで、エカテリーナは将来の悲劇からは救われた形となったが。
(この話ではエカテリーナがもっとも良い道に進んだ気がする)。
1948年版もこんな感じであっただろうか、、、少なくともここまで白々しさはなかったはずだ。

自分自身と周囲に追い詰められ列車に身を投げるアンナ。
これはかなり始めの頃から、象徴的に繰り返し暗示されてきた結末ではあった。
社交界(貴族の世界)の美徳と退廃のシステムからほんの一時逃れ、、、
緑の草原で読書しながら子供達の遊び回るのを、重荷から解かれたアレクセイが穏やかな視線で眺めていたのが印象的である。
わたしも、こんなシーンが理想だ。
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