ファイナル・デスティネーション
また息抜きにただ見ていれば良いと思える映画を。
以前、見る前に家族によって消されていた宿命の?映画がまたロードショーで入っていたので、見てみた(笑。

Final Destination
2000年
アメリカ
ジェームズ・ウォン監督
デヴォン・サワ、、、アレックス・ブラウニング(死の兆候を幻視する高校生)
アリ・ラーター、、、クレア・リバース(直感鋭い女子高生)
トニー・トッド、、、ウィリアム・ブラッドワース(葬儀屋)
カー・スミス、、、カーター・ホートン(粗暴な高校生)
アリ・ラーターはバイオハザードでも活躍している。
「最終目的地」シリーズ第一弾目である。
監督は違うが、2の”デッドコースター”と手法・内容は似たものに思えた。
勿論、シリーズものなのだから、製作者からそのように要請されているはずだ。
寧ろその基本フォーマットをここで作ったと言えるか。
つまり、死神ピタゴラスイッチの確立である。
その後複雑さを増して、、、興行収入の高い、人気シリーズを維持する。
主人公アレックスが、修学旅行で自分たちが搭乗する飛行機の凄まじい爆発事故の予知ヴィジョンを目の当たりにしてしまう。
彼が機内で叫び暴れたため、アレックスとそれに関わった他5人と引率教師1人は、強制的に降ろされ、その通りに起きた事故に巻き込まれずに済む。
だが、死のシナリオは出来上がっており、助かったと思った6人は次々と死に追いやられる。
その死に方も、物体の動きの連動により致命傷を与えられるという手の込んだもの(ゲーム性の濃い)。
(ただし、この第一作目ではその連動はそれ程、手の込んだものではなく、ピタゴラ初級編とでも言いたいものである)。
ジョン・デンバーが死の象徴いや予兆の歌手として何度も音楽がかけられるのも面白い。
(彼も飛行機事故で死んでいる)。
ずっとシリーズに出てくる、超越的な位置に立つ葬儀屋ウィリアムとは何者なのか。
やけに死(死神)について詳しいし、物語からも半ば超脱している。
ホラーというと、何やらジェイソンに代表される殺戮鬼が、たまたま生贄になる人物を、ジワジワとまたは唐突に襲い無残な殺し方をする。その殺しまでの過程は、こちら観客には超越的に俯瞰できる特等席が多く用意されている。
後はどんな殺され方をするのか、が興味の対象となる。
しかしこのシリーズは、われわれもほとんど、主人公および彼らと同じ身体的目線でリアルタイムで辿ってゆくしかない。
しかも、何者かによって殺されるのではなく、「死」そのものに意図も分からず呑み込まれてしまうのだ。
殺す主体がいてそれによって死ぬのではなく、定められた「死」の運命が発動されるのだけなのだ。
明確な対象の無い分、回避が酷く困難となる。
基本的に主体(主格)がなく、運動(述語)のみがあるのだから。
だが、見かけ~心情的には死という「存在」として、何やら実体化を帯びてくる。
彼らにとって擬人化してゆく。わたしはそのため、「死神」という呼び名を取り敢えず使ってみた。
しかしどうあっても、やはり掴みどころのない、全く救われようのない事態であることに変わりない。
この曖昧さがこのゲーム感覚の殺戮のリアリティを強固なものに逆にしている。
原因の探りようのなさ、意味の不明、不条理性において「死」という概念は絶対的な場所にいる。
ここではさしあたり、リストアップされた人間(九死に一生を得たと思いきや実は死ぬ運命にある)という範囲・設定での、生き残りを賭けたデッドレースという形で展開するとは言え、何故、そんな律儀な死の順番や連鎖があるように見えるのか、、、そのへんからして皆目、分かってはいない。「死」とは絶対なのだ。世界の縁である。
特異なクリーチャーやサイコ、悪魔を捏造する手間がない上、その成り立ち、由来や殺戮の意味の説明も不要で、死に方さえ面白くすればよい。
そこで、このシリーズでは、連鎖の順番の割り出し、予兆と回避、(日常的な)物の連動による殺害方法のシステムを工夫することに注力することになる。
それだけで物語の骨格は概ね出来てしまうだろう。
後は、登場人物の肉付け程度か、、、。
アイデアを更新し、マンネリを回避すれば、シリーズは寅さんに負けないくらい続けられるのでは。
NHKのピタゴラスイッチもずっと続いている。
頑張れ「ファイナル・デスティネーション」!(爆。
以前、見る前に家族によって消されていた宿命の?映画がまたロードショーで入っていたので、見てみた(笑。

Final Destination
2000年
アメリカ
ジェームズ・ウォン監督
デヴォン・サワ、、、アレックス・ブラウニング(死の兆候を幻視する高校生)
アリ・ラーター、、、クレア・リバース(直感鋭い女子高生)
トニー・トッド、、、ウィリアム・ブラッドワース(葬儀屋)
カー・スミス、、、カーター・ホートン(粗暴な高校生)
アリ・ラーターはバイオハザードでも活躍している。
「最終目的地」シリーズ第一弾目である。
監督は違うが、2の”デッドコースター”と手法・内容は似たものに思えた。
勿論、シリーズものなのだから、製作者からそのように要請されているはずだ。
寧ろその基本フォーマットをここで作ったと言えるか。
つまり、死神ピタゴラスイッチの確立である。
その後複雑さを増して、、、興行収入の高い、人気シリーズを維持する。
主人公アレックスが、修学旅行で自分たちが搭乗する飛行機の凄まじい爆発事故の予知ヴィジョンを目の当たりにしてしまう。
彼が機内で叫び暴れたため、アレックスとそれに関わった他5人と引率教師1人は、強制的に降ろされ、その通りに起きた事故に巻き込まれずに済む。
だが、死のシナリオは出来上がっており、助かったと思った6人は次々と死に追いやられる。
その死に方も、物体の動きの連動により致命傷を与えられるという手の込んだもの(ゲーム性の濃い)。
(ただし、この第一作目ではその連動はそれ程、手の込んだものではなく、ピタゴラ初級編とでも言いたいものである)。
ジョン・デンバーが死の象徴いや予兆の歌手として何度も音楽がかけられるのも面白い。
(彼も飛行機事故で死んでいる)。
ずっとシリーズに出てくる、超越的な位置に立つ葬儀屋ウィリアムとは何者なのか。
やけに死(死神)について詳しいし、物語からも半ば超脱している。
ホラーというと、何やらジェイソンに代表される殺戮鬼が、たまたま生贄になる人物を、ジワジワとまたは唐突に襲い無残な殺し方をする。その殺しまでの過程は、こちら観客には超越的に俯瞰できる特等席が多く用意されている。
後はどんな殺され方をするのか、が興味の対象となる。
しかしこのシリーズは、われわれもほとんど、主人公および彼らと同じ身体的目線でリアルタイムで辿ってゆくしかない。
しかも、何者かによって殺されるのではなく、「死」そのものに意図も分からず呑み込まれてしまうのだ。
殺す主体がいてそれによって死ぬのではなく、定められた「死」の運命が発動されるのだけなのだ。
明確な対象の無い分、回避が酷く困難となる。
基本的に主体(主格)がなく、運動(述語)のみがあるのだから。
だが、見かけ~心情的には死という「存在」として、何やら実体化を帯びてくる。
彼らにとって擬人化してゆく。わたしはそのため、「死神」という呼び名を取り敢えず使ってみた。
しかしどうあっても、やはり掴みどころのない、全く救われようのない事態であることに変わりない。
この曖昧さがこのゲーム感覚の殺戮のリアリティを強固なものに逆にしている。
原因の探りようのなさ、意味の不明、不条理性において「死」という概念は絶対的な場所にいる。
ここではさしあたり、リストアップされた人間(九死に一生を得たと思いきや実は死ぬ運命にある)という範囲・設定での、生き残りを賭けたデッドレースという形で展開するとは言え、何故、そんな律儀な死の順番や連鎖があるように見えるのか、、、そのへんからして皆目、分かってはいない。「死」とは絶対なのだ。世界の縁である。
特異なクリーチャーやサイコ、悪魔を捏造する手間がない上、その成り立ち、由来や殺戮の意味の説明も不要で、死に方さえ面白くすればよい。
そこで、このシリーズでは、連鎖の順番の割り出し、予兆と回避、(日常的な)物の連動による殺害方法のシステムを工夫することに注力することになる。
それだけで物語の骨格は概ね出来てしまうだろう。
後は、登場人物の肉付け程度か、、、。
アイデアを更新し、マンネリを回避すれば、シリーズは寅さんに負けないくらい続けられるのでは。
NHKのピタゴラスイッチもずっと続いている。
頑張れ「ファイナル・デスティネーション」!(爆。
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